2008年12月  1.溶け合ういのち
 「一つの花に相対します。じっとそうしていると、その花から“気”をもらいます。それによって、俳句を詠むことができます」――ある俳人がそう語るのを聞き、(なるほどな)と思いました。花の形・大きさ・色といったものを、ただ客観的に描写するだけでは、やはり、その花のいのちは、こちらのいのちに語りかけてはこないでしょう。花のいのちと自分のいのち、それらは確かに別々のいのちです。二つのいのちが出会うとき、しかし、一つのいのちとして体験される、そういうときは確かにあります。
 私たちのいのちの体験は、しかし、ますます断片的なものになってきています。多くの人々は、病院などの自宅外で生まれ、自宅外の施設で息を引き取ります。人間の誕生と死という、いのちの体験において極めて大切な場面に立ち会うことが、ますます稀なこととなってきています。私たちが日々口にする食物は、いったいどのような経路を経て私たちの食卓に上るのでしょう。私たちはほとんどそのことを知らず、またそのことを気にも留めていません。魚の切り身が海の中を泳いでいる、そんな絵をかく子供を微笑ましく眺めている大人の姿を見て、背中に冷たい汗が流れます。
 すべてのいのちは、みなつながり合っています。たとえそれが植物のいのちであっても動物のいのちであっても、私たち人間のいのちと無関係なものは、一つとしてありません。いのちの共生は、ここに始まります。そこにあるのはいのちの共生における秩序であって、いのちのヒエラルキーはありません。この秩序を乱すものは、残念ながら、人間です。すべてのいのちの世話をすることを託されたのに(創世記1・28参照)、かえってそれらを自分の支配のうちに取り込もうとします。
 いのちのつながりは、逆説的です。すなわち、自分のいのちだけを保とうとするとき、必ずどこかであるいのちが傷つけられ、苦しみ・悲しみの声を発します。それとは反対に、自分のいのちを他のいのちのために捧げるとき、かえっていのちは生かされます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)。いのちは亡くなることによって、他のいのちへと受け継がれていきます。つまり、いのちは形を変えながら受け継がれていきます。ですから、死とは、まったくの無に帰してしまうことではなく、新たないのちへの変容であると言えるでしょう。
 一つのいのちを生かす“気”は、他のいのちの中へと流れていきます。そうしてすべてのものは同じ一つのいのちによって生かされます。それぞれのいのちはそれぞれの光を輝かせながら、生きていきます。それぞれの違いを照らし合いながら、生きていきます。この地球上のすべてのいのちは、一つに溶け合い、生かされています。