2008年12月  2.いのちの証し
 2008年11月24日に、「ペトロ岐部と187人殉教者」の列福式が長崎で盛大に行われました。殉教者のために日本の教会が心を合わせて祈り、準備を重ねてきたこの列福式を振り返りながら、いのちについてのイエスの教えの根源に立ち返り、永遠のいのちを証しする使命について、深めて参りましょう。

 当日、あいにく空は朝から雨模様となりましたが、幸い、心配していたほど雨脚は強くなく、式の途中からはときどき陽が差すこともありました。予定どおり式は正午に始まり、さしたる問題もなく無事終えることができました。式はおよそ3時間40分にわたりましたが、その間、球場の上に広がる鉛色の空に、数羽のトンビがゆるやかに弧を描いていたのが印象的でした。
 「殉教」という言葉を聞くと、おそらく、まず「死」という言葉を思い浮かべるかも知れません。しかし「殉教」という言葉は、そもそも、ギリシア語の「マルティリア」(martyria)に由来し、「証し」を意味します。ですから、殉教者とは、本来、「証しをする人」を意味します。さらに言うなら、それは、「自らの生と死をとおしてイエス・キリストを証しする人」ということになります。殉教者の死は、それゆえ、いわゆる“無駄死に”とは根本的に異なります。今回列福された188人の殉教者は、1603年から1639年にかけて、日本の各地で自らの生と死をとおして、イエス・キリストを証しした人々です。彼らは、同じ「証し」によって、初代教会の人々と、またイエス・キリスト自身とつながっており、そのことはまた、私たちにとって、力強い信仰の証しとなり、励ましともなっています。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)――殉教者について語られるとき、しばしば耳にする言葉です。この言葉を文字どおり生きたのは、イエス・キリストにほかなりません。それゆえ、殉教者にとって、生きるにしても死ぬにしても、イエスが模範であったことは、打ち消すことのできない事実でしょう。イエスをとおして示されたのは、しかし、生と死に留まるものではありませんでした。その先にあるもの、すなわち、イエスの復活そのものであり、それこそ神がイエスにおいて行われた根源的事実です。それゆえ、イエスは、私たちにこう語ります――「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・25)。
 イエスの生・死・復活をとおして、私たちは、二つのことに気づかされます。一つは、この世における死は、いのちからまったくの無に帰してしまうことではなく、新たな永遠のいのちへの変容であるということです。もう一つは、この世のいのちは、確かに、基本的には善いものなのですが、絶対的に善いものであるというわけではないということです。つまり、何が何でもそれにしがみついていなければならない、というものではないのです。
 神は、いかなるものの死も望みません(エゼキエル33・11参照)。知者は語ります――「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」(知恵1・13-14)。それゆえにこそ、殉教者の中には、パウロとともに次の確信があったはずです――「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(一コリント15・14)。