2008年12月  3.主における兄弟姉妹
 「明日はこの冬一番の寒さとなるでしょう」――と天気予報は告げていたのに、次の日はむしろ、小春日和のような陽気となることもしばしばです。昔ほど天気予報がはずれることはありませんが、それでも、いつもピタリと当たるわけではありません。またそのようなことは、こちらも承知していますから、とりわけ騒ぎ立てることもありません。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14・18)――そうイエスが約束されてから、二千年が経ちました。「いったい、いつになったら・・・・・・」とやきもきするでしょうか。それとも、あたかもそのようなことばは忘れたかのように、淡々と今日一日を過ごしていくのでしょうか。
 しかしながら、そのイエスが最後に私たちに遺されたことば、それを今改めて思い起こしたいと思います――「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。なぜなら、そうすることによって、わたしたちがイエスの弟子であるということを、ひいては、主における兄弟姉妹であるということを、周りの人々がわかるようになるからです。イエスの弟子であるということ、それはイエスへの信仰において、互いに兄弟姉妹であるということにほかなりません。イエスを長子として(ローマ8・29)、彼と、またお互いにつながることによって成り立つ関係です。同時にまた、そのとき、わたしたち一人ひとりは、神の子とも呼ばれます(ヨハネ1・12参照)。
 互いに愛し合うとは、しかし、具体的にはどうすることなのでしょうか。三つの点が思い浮かびます。まずそれは、「互いに仕え合う」ということにほかなりません(仕合せ)(ヨハネ13・14参照)。次に、「お互いのいのちを響き合わせること」です(共感)。素朴な心で、人の喜びを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとすることです(ローマ12・15参照)。そして、「互いに赦し合うこと」です(和解)(コロサイ3・13参照)。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13、一ヨハネ3・16参照)――とイエスは語ります。言い換えるなら、誰かのためにいのちを賭けることによって、初めて人はその人の真の友となるということでしょうか。当然ここでは、血縁・親族といった枠組みを超えています。さらにこの誰かには、いわゆる「敵」も含まれてきます。自分の敵が兄弟となる。この逆転劇が生まれるのは、ひとえに愛によります――「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)。
 自分が出会う人のうちに神を見出すこと、それなしにその人の真の兄弟となることはできません。それゆえイエスは、神への愛と隣人への愛は、端的に同じものではありませんが、一つであると語ります(マルコ12・29-31、一ヨハネ4・20-21)。大切なのは、自分の隣人/兄弟は誰かと探し回ることではなく、自分が誰かの兄弟となることです(ルカ10・25-37参照)。具体的状況は、さまざまです。しかし常にそこで求められるのは、相対する人に、自分の立ち位置から心を込めてかかわるということです。
 「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1)。
写真: 聖イグナチオ教会献堂記念写真集 教会学校より