2008年12月  4.もう一つの子どもの情景
 「孟母三遷(もうぼさんせん)の教え」については、多くの方がご存知だろうと思います。「孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと三度遷(うつ)しかえて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事」(『広辞苑』)と言われます。孟子の母が、いわゆる、教育ママであったかどうかは分かりませんが、人間の成長にとって環境がいかに大切であるかは、疑い得ないことでしょう。そう考えると、人間は、ただ単にDNAに代表される先天的要素だけでは決まらないということのようです。一つのいのちが、一人の人間のいのちとなる――そこには人間としての尊厳の育みがあります。
 最近、「子どもを授かる」といった言葉をあまり聞かなくなったのは、気のせいでしょうか。(いろいろ事情はあるのでしょうが)子どもを授からないとき、現代では、人工授精・体外受精、代理母などの、生殖医療技術の進歩(?)のおかげで、子どもを造ることが可能となりました。それとは反対に、さまざまな理由は聞きますが、子どもは授かったのに、要らないからといって、人工妊娠中絶によっていのちを奪ってしまうこともあります。このように、人間は、本来なら生まれなかったであろういのちを造り、生まれてしまったいのちを亡きものとしています。あたかもそれは、人間のいのちは人間の手中にある、と言わんばかりです。「望まない妊娠」という言葉をしばしば耳にします。しかし、いったい誰が望まないというのでしょうか。そこには、残念ながら、赤ちゃんの姿が見えてこないのです。
 「子どもの尊厳」について思いを馳せるとき、どれほど他者の保護に依存するものであるかということに気づかされます。それはかけがえのないものであればあるほど、同時にまた、もろいのです。尊厳がないがしろにされるということは、ひいては、いのちが傷つけられるということにほかなりません。そこには文字通り、身体的に危害を加えるということから言葉によって相手の心を傷つけるということまで、様々な形があります。このように人間の心の奥深くには、自分ではどうにもならない、ドロッとした暗い力が棲んでいます。そのことについてパウロは、次のように語ります――「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7・19)。これは、悲しいことですが、人間の現実です。
 イエスが幼子の姿で遣わされたのは、まさに、このような人間の生きる世界です。その際、イエス自身の尊厳は何ら傷つけられなかったのでしょうか。そうではないでしょう。むしろイエスは、人間の尊厳を傷つけるあらゆる悪の力を一身に引き受けたと言えるのではないでしょうか(ルカ2・34参照)。それにもかかわらず、彼のことばには明るさがあるのはなぜでしょうか。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・25-26)。このように語るイエスは、同時にまた、次のことばで私たちを招きます――「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・3)。