2009年1月 2.愛の対局にあるもの |
「愛」の対立語(反対語)は何ですか、と聞かれると、簡単に答えることができません。 まず、「憎む」という語が浮かんできます。「嫌う」と同じように、心の傾きを表す語は幾つかあります。心の傾きであっても、あるいは心の傾きに過ぎないと言っても、大丈夫だというわけではありません。人を「憎む」「嫌う」という感情は、その段階だけにとどまるはずはありません。やはりいずれ「差別」「批判」「いじめ」などに発展する危険性を充分に含んでいます。 マザー・テレサは、むしろ愛の対立語は「無視」・「無関心」だと考えているようです。「憎む」あるいは「嫌う」の場合、少なくとも相手を考慮に入れているはずです。しかし、「無視」するとは、字の通り、見ようとしない、相手にしないということです。案外、私たちは無意識のうちに無視しています。地球規模で考えなければならない問題によって、8億人の人々が飢餓で苦しみ、一千万人に近い人々が飢え死にしていることを「無視」しています。日常的な環境まで、自分たちだけ優先席に座っていて、食料を必要としていて待っている方々を「無視」しています。「無視」することは、たまたま視野内に入らないことというよりも、積極的に視野内に入れない姿勢だと思います。 「蔑視」することもあります。「軽蔑」しながら、相手を見る。軽く言えば「見下げる」ということです。もしかすると、現代社会の一つの特徴は「比較」でものを見て「評価」することかもしれません。「ランキング」したり、「ランキング」されるたりすることはしばしば見られる現象でしょう。現代は「上下」関係をことのほか重視するいわゆる「民主主義」の社会と言えましょう。上から「見下げる」環境はできあがっているような気がします。「いじめる」ことは、このような環境から発生するのでしょう。 「憎む」「嫌う」「無視」「蔑視」などなど、ことごとく「陰険」な暗い人間同士の破壊的な関係を生み出します。 「愛」とは、それとは逆に、新鮮な明るい人間同士の建設的な関係を生み出します。相手を「大切」にすることは、相手を癒し、喜ばせ、成長させるばかりではなく、自分自身も癒され、喜び、大人として振舞うことになります。「愛」は自然な人間関係ではないでしょうか。 「愛」を中心にした生活を、心がけてまいりましょう。 |