2009年1月  4.宗教的な成長
 キリスト教の成長について、考えてみましょう。
 もしかすると、キリスト教そのものは、決して変わらない、成長などない、と言えるかもしれませんが、時を経る中で、私たちも、そして教会も、その理解を深めていくと言えるのではないでしょうか。
 一つの例を掲げることにしましょう。今から60年ほど前、日本に渡来したたくさんの宣教師がまだ子どもだった時分、「完徳の道」を歩んでいるのはいわゆる「聖職者」であって、一般の信徒ではないと考えられていました。ところが、キリスト教にとって多くの意味をもった第2バチカン公会議(1962−1965年)は、「完徳の道」に召されているのは、「聖職者」だけではなく、それぞれの状況に置かれた私たち一人ひとりだと、はっきりと宣言しました。
 このように、宗教であるキリスト教の理解も変わってきたのです。20世紀の後半から今日に至るまで、社会は大きく変化しました。コンピュータや携帯電話だけではありません。生活様式ばかりか、人々の考え方自体も変わってきました。カトリック教会の中でも、「聖職者中心」から、「神の民」の理解になりつつあるといっても過言ではありません。神を目指している人なら、だれでも「神の民」と言えるでしょう。そして、以前よりも、神との関係は、くつろいだものとなった気がします。「私たちの父よ」という呼びかけを、生き方の中心にしてきたのです。
 神は父であり母です。私たちの「この世」と「あの世」の幸せを、唯々お望みになっておられます。私たちの幸せを目的にしない神のみ旨はありえないのです。神はありのまま、欠点だらけの私たちを、心を込めて愛してくださいます。罪人の私たちを抱きしめ、癒してくださる神こそ、イエスが語ってくださった神であり、私たちの信じる神です。
 神は「私たち」の神です。個人の専用物ではありません。例外なく、地球の全ての人々の父であり母です。ですから、人間同士は同じ神を父としている兄弟姉妹であるわけです。
 その神の望みに応えるために、私たちが成すべきことは具体的にはどのようなことでしょうか。「神の民」に託された使命に気づかせていただけるように祈りながら、今日もこの一日を、ささげてまいりましょう。