2009年1月  5.存在文化の境地
 人は生きている間に、三つの文化の段階を経ると考えることができるでしょう。もちろん、その途中でいのちを神にお返しする人生もあるのですが。

 第一の文化は「所有文化」で、これは最も普遍的なものだと思われます。赤ちゃんの時分から、まだ評価感覚がないにもかかわらず、物を欲しがり、物を持ちたがるのは常です。取られると泣きますし、そのことで喧嘩もします。
 しばらくすると、この「所有文化」は人と比べて、欲求を募らせるようになります。信念として「テレビを持たない」と決めていたある子どもが、やはり友だちが皆持っていたので、結局テレビを持つはめになってしまいました。現代社会の携帯電話の普及は、一つの著しい事例でしょう。
 大人になると、何にでも交換することができる「お金」を所有することが、人生の一つの目標になっていきます。度を超すと、お金を所有することが、生きることの唯一の動機付けになってしまいます。しかも、この欲望は際限なく膨らみ、決して満たされることはありません。だからといって、あらゆる物を「所有」することができたとしても、幸せになれる保証はどこにもありません。この気づきは、長い年月にわたる経験から生まれる恵みでしょう。

 第二は「多忙文化」です。これも普遍的なものだと思われます。日本では「忙しい」という言葉が頻繁に用いられています。挨拶の代わりに、必ずと言ってもいいくらい「お忙しいですか」と問いかけます。人間は日程表が予定や計画でいっぱいにならないと、不安で落ち着かないようです。
 「多忙文化」は「行動文化」と置き換えてもいいでしょう。あるいは「業績分化」と言えるかも知れません。何を成し遂げるかということによって人間が評価される文化なのです。

 人は、おそらくこの二つの文化の段階を経て、「境地」に達します。その境地とは、「存在文化」です。「生きる」こと、「生かしていただいている」ことは、何よりも一番、素敵なことなのです。さらに、簡素な生活をして、何らかのかたちで、「人のために」、「人とともに」生きることができれば、物をあまり持たないにしても、業績がなくても、それが最高の生きざまだと気づくのです。
 この気づきの恵みを願って、日々を重ねてまいりましょう。