2009年2月  2.与えることの幸い
 歳をとって弱くなっていく姿は、目に見えるので、隠すというわけにはいきません。ところが、歳をとっていることが強みであることが、ないわけではありません。その強みは、経験だと思います。なんでもかんでも試してきたはずなのです。失敗も致しました。そのおかげで、高齢者、老齢者は、本物の「生活の知恵」を身につけている方だと思います。
 イエスの言葉に、「受けるよりは、与えるが幸いである」というものがあります。正直なところ、これは歳をとった時に、やっと分かるのかもしれません。
 与えることは、本来的に「無償」で行うことを意味します。いろいろなものを与えることができます。自分の「持ち物」を与えることができるのです。子どもはなかなか、自分の「持ち物」を与えようとしません。それは子ども自身が与える「喜び」を経験していないからだと思います。
 「持ち物」の他に、無償で「与える」ことができるものは、たくさんあります。「笑顔」「微笑み」「喜び」「平和」「励ましの言葉」「感謝」「挨拶」「お見舞い」などを与えるために、お金は全く要りません。でも、お金よりもずっと貴重なものかもしれません。「笑顔」を与えてくれると、幸せになり、わくわくします。経験を重ねると、「笑顔」を見せ与えることは、幸せだという「境地」になります。それは分かち「合い」ということになり、分かち「愛」ということになります。
 さらに、自分の「時間」を与えることができます。それは、むしろ自分の時間を一番大切にすることになるのです。「時は金なり」とは、特にその時間を必要としている人に与えることなのでしょう。もしかすると、金ではなくダイアモンドに値するかもしれません。
 しかし、「受ける」ことも捨てたものではありません。実は「与える」ということ自体は、「受ける」こともその中に含まれていることだと、既に経験済みです。「喜び」を与える瞬間に、もしかすると与える側は受ける側よりずっと喜びが大きいと言ってもいいのです。
 歳をとればそれだけ、人に頼ることが多くなります。人に頼られることも幸せですし、人に頼ることも幸せです。
 考えてみると、幸せな世の中は、夢のユートピアではなく、今この場に実現することができるはずです。「与える」毎日を過ごせますように。