2009年2月  3.分かち合い
 いつごろから「分かち合い」という言葉が使われ始めたのか、記憶は定かではありませんが、おそらく30年くらい前までさかのぼらなければならないだろうと思います。当時新聞や雑誌、また他の読み物にも、あまり使われていなかったような気がします。
 いつごろから「分かち合い」という言葉がキリスト者の語彙の、そしてキリスト者の人生の、中心的な役割を演じることになったのか、記憶は定かではありませんが、おそらく25年くらい前までにさかのぼらなければならないと思います。
 そして今、人生は「分かち合い」だと思うのです。元来、人間の生命の誕生は、父親と母親の分かち合いの結果です。「分かち合い」のおかげで、今日まで生きている・生かされているのです。分かち合いは「恵み」なのです。
 人々はさまざまな才能を備えています。この才能が自分のものだと主張しますが、実は無償で神からいただいたものなのです。自分でその才能に磨きをかけることはできますが、もともとの才能が与えられていなければ、話しは始まりません。スペインに「自然が与えてくれなければ、サラマンカ大学は教えてくれません」という古いことわざがありますが、もともとの才能が自然から、神から、与えられていなければ、一流大学に行っても成果は上がらないということなのでしょう。
 才能は無償で神からいただいているので、自分のものというよりも、人類全体のものだと言っても過言ではありません。共有財産であるはずです。無償でいただいているので、本来的にいえば、無償で分かち合うようにしなければならないのです。ボランティアとして、自分の才能を活用しながら、無償で人々に仕える姿は本来的な姿だと思います。
 「分かち合い」は当然ながら相互的な関わりを意味します。「あげる」喜び、「もらう」喜びは二重の喜びになります。幸せになりたいのなら、「儲けなさい」「出世しなさい」と言うよりも、「分かち合いなさい」と奨めたほうが、当を得ていると確信をしています。
 また、経験を積み重ねて分かることですが、「分かち合い」は同時に「分かち愛」なのです。「分かち合い」をすれば「分かち愛」になるし、「分かち愛」をすれば「分かち合い」になります。
 今月の意向に示されたアフリカでの正義と平和の促進や初等教育の推進も、一人ひとりの「分かち愛」の姿勢から始まることを、人々に伝えることが求められているのではないでしょうか。「分かち愛」の心を日々ささげて、過ごしてまいりましょう。
写真: 中司 伸聡