2009年4月 1.いのちの神に私は渇く |
「いただきます」――この言葉によって、食事をいただくことのできる私たちは、幸せです。それは、ただ単に、食物をいただくからではなく、それをとおしていのちをいただいているからです。ですから、もし、最低限の日々の食事さえ与えられないならば、それは、いのちとの関係が断ち切られていること、すなわち、死を意味することにほかならないでしょう。すべての人に、それぞれ必要な分が与えられること――これこそが本来あるべき、私たちの生活の姿です。 しかし、現実の世界はどうでしょうか。ある人々は、最低限の食事を摂ることもできず死を迎える人もいれば、飽食の生活に自らを見失っている人もいます。いったいこの矛盾は、どこからくるのでしょうか。ぎりぎりのところで生きている人々が、現にいます。年間920万人、3秒に一人の子どもがいのちを落としている、とも聞きます。このような人々を無視することは、神の御心ではありません。それは、ラザロと金持ちの話に語られているとおりです(ルカ16・19-31)。現実に飢え渇いている人に関わること、それは、イエス自身に関わることでもあります(マタイ25・35-42)。 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11・3)――この祈りを生きることは、ある意味で、私たちの生活のすべてを含んでいます。なぜなら、ここで語られる糧とは、ただ単に、食物だけを指すのではなく、人間として当然受けるべき生活の水準、他の人々との関係、さらには、いのちそのものである神との関係までも含んでいるからです。「衣食足りて礼節を知る」――やはり、私たちには、ある程度のものがなければなりません。しかしそれは、多ければ多いほどいい、というものでもありません。大切なのは、自分に必要な分を知り、それで足りるという弁(わきま)えです。「飽き足りれば、裏切り / 主など何者か、と言うおそれがあります。 貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません」(箴言30・9)。 確かに、物質的な飢え渇きは、私たちが真摯に向かわなければならない問題です。しかし同時にまた、私たちには、より根本的な飢え渇きもあります。それを理解しないならば、次のイエスのことばの真意を汲むことはできないでしょう。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7・37-38)。イエスは、“いのちの水”です。私たちの根本的な飢え渇きを潤すのは、この水です。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4・4)――このことばの深い意味に招かれたい、と思います。パンは、必要です。しかし大切な点は、パンだけではない、ということです。神のことばは、何よりもまず、いのちそのものです(ヨハネ1・4)。それが、私たち一人ひとりの中に種として蒔かれています(マタイ13・18-23)。その事実に改めて驚き感謝し、心を込めてその種を養い育てたい、とそう思います。 |