2009年4月  2.貧しさの語ること
 江戸時代の後期、良寛(1758−1831)という禅宗のお坊さんがいました。多くの人が、彼の生き方に共鳴し、あこがれ、何かを学びます。いったい良寛さんの何が、それほど私たちの心を捉えるのでしょうか。ここでは一つのことだけ、指摘してみたいと思います。それは、「足るを知る」ということを身をもって生きた、ということです。彼は、経済的には恵まれた家庭に育ち、それ相応の教育も受け、やがて国仙和尚のもとで修業をし、33歳のときに印可の偈(げ:禅僧としての卒業証書)を受けます。自分が望めば、寺を持ち住職となることもできましたが、彼はそうせずに、生涯、托鉢に身を置きます。
 このように、安定した生活を自ら捨てる人はまずいないでしょう。普通に考えれば、明らかに常軌を逸しています。私たちは、少しでも安定した生活を求めます。それ自体、決して悪いことではなく、むしろ自然でしょう。しかし、私たちの世界には、そもそも、一人の人間として、当然享受すべき最低限の生活さえ保障されていない人もいます。生活に窮し、社会の周辺に追いやられ、それでも一顧だにされず、この世を去っていく人が、現にいます。自分の意志には関係なく、そのような生活を生きざるをえないこの現実は、いったい何を意味するのでしょうか。
 「貧しい人々は幸い」(ルカ6・20)――この言葉は、いったい、何を意味するのでしょうか。人は、確かに、パンだけで生きるのではありません。しかし、パンが必要なのも、事実です。かつて「清貧」という言葉が流行ったことがあります。この言葉には、どこか凛とした響きがあります。しかし、「貧困」という言葉には、ありません。
 「貧しさ」には意味がある、そのことを身をもって示したのは、イエスです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)。富んでいたイエス自身が、貧しくなられた。もしこの事実がなかったら、「貧しい人々は幸い」という言葉ほど、空しい言葉はないでしょう。
 それゆえ、当代きっての教育を受けていたパウロは、語ります――「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3・8)。これは、パウロの体験の表白です。彼は、確かに、キリストを知りました。しかし、そのときの「知る」とは、単に知的に頭で知ること(知識)ではなく、心と身体で分かること(知恵)です。
 良寛さんは記します――「一衣一鉢 欠くことなし。」彼が師の国仙和尚から受けた印可の偈には、「良也愚の如く」と記されています。それゆえ、彼は、しばしば「大愚」と呼ばれますが、この愚かさは、決して無知蒙昧を意味するのではなく、真の貧しさを知っていることだと思います。