2009年4月  3.いつくしみとまことが出会うとき
 覆い包むようにして咲きほこる桜――「あぁ美しいなぁ」と、静かに思います。昼間は昼間なりに、夜は夜なりに、こぼれ落ちるようないのちの息遣いを感じます。そのような花の下で、気が置けない人と話を交わし食を共にすることが、楽しくないはずがありません。心が和むのも、あの淡い色合いとほのかな香りによるのでしょうか。さりげないようでいて、ちゃんと人を捉えて離さない存在感が、そこにはあります。私たちも、もしそのような生き方ができたら、きっと、もっとお互いを気遣い、いつくしみの通い合う世の中になるのではないか、と思います。
 聖書の中でも、「いつくしみ」という言葉は、何回ともなく語られます。しかもそのとき、「まこと」という言葉と相補うようにして使われることが、少なくありません。「いつくしみとまことはめぐり合い 正義と平和はいだき合う」(詩編85・11、89参照)。「神への小道は いつくしみとまことにあふれる」(詩編25・10)。聖書によれば、「いつくしみ」も「まこと」も、その源は神にあります。これら二つの言葉は、実に柔らかく温かな日本語です。私たちは、もっとこのような言葉で、神を語ることができたなら、もっと多くの人が、耳を傾け、心を開き、神の心に触れることができるのではないか、と思います。
 仏教の方では、「慈悲」という言葉があります。慈悲とは、『広辞苑』(第五版)によれば、「仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむ心。一説に、衆生に楽を与えること(与楽)を慈、苦を除くこと(抜苦)を非という。特に大乗仏教において、智慧と並べて重視される」とあります。「慈」とは「友」を表すサンスクリット語に由来する語で、「友情、親愛の思い」を表し、利益と安らぎを与える意味とされます。一方「悲」は、「憐れみ、同情」を原義とするサンスクリット語に由来し、不利益や苦しみを除く意味であると言われます。
 儒教においてこの言葉に相当するのが、「仁」です。「樊遅(はんち)が仁のことをおたずねすると、先生は『人を愛することだ』といわれた」(『論語』顔淵第十二・22)とあります。「愛」とは、しかし、ある意味で曖昧な言葉です。例えば、新約聖書において「愛」と翻訳されるギリシア語には、「エロス」「フィリア」「アガペー」があります。一般的には、「エロス」は欲望、「フィリア」は友愛、そして「アガペー」は無条件に与える愛と理解されています。この中の「アガペー」は、かなり「仁」の内容と重なっているのではないかと思います。
 神の「いつくしみ」が、神の「まこと」として、私たちに与えられました――イエス・キリスト。イエスは、「恵みとまこととに満ちていた」(ヨハネ1・14)と言われます。次のような言葉に出会ったことがあります。「神はまこと。なぜなら、彼は、自らが約束されたことはいつまでも忘れないのに、私たちの犯した過ちはたちまち忘れてしまうから。」パウロは、次のように語ります。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(一コリント1・9)。