2009年4月  4.いのちのわきまえ
 昨日まではまだ可能性の段階にあったものが、今日は現実のものとなっている――科学技術あるいは生殖医療技術と呼ばれる分野では、そのようなことが日々起きています。「なかなか子どもが授からない。それなら、人工授精・体外受精をしましょう。」「望まない妊娠(誰が?)。それなら、おろしましょう。」「とにかく生き長らえさせたい。それなら、延命治療をしましょう。」「脳死です。それなら、臓器移植をしましょう。」このように私たちを駆り立てるのは、いったい何なのでしょう。
 「もっと快適な暮らしをしたい」「もっと便利な生活を送りたい」――そう願う気持ちは、人間として自然かもしれません。しかし、自然であるがゆえに、そこには危険性も孕(はら)んでいるように思われます。「足ることを知る」――物に溢(あふ)れた生活の中で、この言葉の深い意味を忘れてしまう。そればかりか、気がついたら、それを否定的に見ている自分がいる。冷たいものが背中に流れます。食べることから、欲しいものを手に入れることまで、人間の欲は、飽くことを知りません。願いが適(かな)うかぎり、私たちは思います――自分のいのちも生活も(ときには人のそれまでも)、思いのままにできる、思いのままにしたい。
 人間の欲は、知らぬ間に、私たちを高慢にします。そのようなとき、かつてあの園で聞いた声が、また私にささやきかけます――「あなたは神のようになる」(創世記3・5参照)。「神のようになる」とは、いったい、どういう意味なのでしょうか。もし、「自分の力によって」ということなら、それは人間の思い上がりでしょう。しかしもし、「十字架の力によって」ということなら、話は違います。なぜなら、イエスが担われたあの木は、「流のほとりに植えられた木」(詩編1・3)となり、やがては「命の木」(黙示録22・2)となったからです。
 神が私たちに与えられるいのち――その意味は、イエスの死と復活をとおして明らかにされます。この世におけるいのちは、確かに基本的には善いものです。ですから、それは慈しまなければなりません。しかしそれは、絶対的に善いものというわけではありません。つまり、何が何でもしがみつかなければならないというものではないのです。確かに私たちは、いのちを大切にしなければなりません。しかしそれは、いのちに対して支配権を持っているというわけではありません。一方死とは、いのちが何もない状態 ――無―― に飲み込まれてしまうことではなく、むしろ、新たな永遠のいのちへの変容です。
 いのちの深みに招かれたい――これは私たちの心からの祈りです。そのために私たちに求められること、それは謙遜であること、言い換えれば、自分を弁(わきま)えることです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23・12)。それがないとき、私たちは、人のいのちをないがしろにし、傷つけます。「豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた」(二コリント8・9)方が、今、どのようにこの世界を、また自分を見ているのか、そのことを静かに思い起こしたいと思います。