2009年6月  2.食卓
 食卓という表現は誰が言い出したのか分かりませんが、非常に豊かな意味をもっている言葉だと思います。この言葉を手がかりとして、キリスト者にとっての具体的な愛のしるしについて、深めてみましょう。
 「食卓」を囲んで食べるというイメージには、おそらく多くの方々にとって、子どものころの懐かしい思い出が伴っていると思います。お母さんはお父さんのために一番おいしそうないいものを確保してから、子どもたちに配分し、もし足りなければ自分は食べないことにしていました。食べものの出来がよくないときには、必ずお母さんのお皿に乗せられました。たとえ70年の歳月を経ても、その出来事は昨日のように頭の中に浮かんでくるものです。しかも、お母さん自身は犠牲を払っているという意識は全くないのです。子どもを喜ばせることこそ、自分の喜びでもあったような気がします。それは愛そのものの表れではないかと思います。
 もしかすると、経済発展、社会の豊かさなどがもたらしたものの一つが「食卓」の消滅だといっても過言ではありません。子どもが一人だけで食事をとることに、疑問を投げかける人はいないのでしょうか。大げさに言えば、社会と家庭の大きな課題の一つは、「食卓」を蘇らせることだと確信します。
 聖書では、旧約聖書にしても、新約聖書にしても、あの世、天国などは、ほとんど例外なく宴会、食卓の比喩で描き出されているのは、実に興味深いことだと思います。言ってみれば、教会の中心である『ミサ』は食卓を囲みながら愛を分かち合うことです。
「食卓」の一番大切な要素は、どんな食事が出されるかということよりも、どのような仲間と一緒に「食卓」を囲んでいるかということではないでしょうか。仲間ではない人々とフランス料理を食べるよりも、仲間と一緒にラーメンを食べたほうがよっぽど楽しいし、美味しいと言えるかもしれません。
 食卓は、ゆとりなど人生の潤いをもたらすものです。潤いのないところに、健全な社会は生まれてこないと言えるかもしれません。