2009年7月  1.夢
 夢を通してその人が分かると、心理学者は言います。それが本当かどうか、私には分かりませんが、私が一番よく見る夢は、なんと言っても、45年前に亡くなったお母さんの夢です。赤ちゃんの時と同じように、よく寝かしてくれます。その懐に包まれることもあります。
 お母さんと関係がないとは言えませんが、神さまの夢も時々見ます。神さまは、放蕩息子のたとえ話のお父さんのような姿を見せてくれます。おそらく、私のこの世の生活が終わって、私をお迎えに来る時は、夢ではなく現実に、神さまはそのお姿で現れるのだろうという予感がします。
 しかし、おそらく別の意味の「夢」を浮かべる読者もいるかもしれません。「夢」を見る、よりも「夢」を描く話もできるはずです。そのような夢は、加齢と共に削られてきます。確か、子どもの時には、闘牛士になる夢を持っていたと思いますが、まさか未だに持ち続けているわけではありません。しかし、夢を持てなくなったというわけではありません。小さなことでは、喜ばれる老人になっていくという夢があります。最終的には、イエスのようになることは無理だと思いつつ、その夢を諦めてはいません。形式(律法)に捕らわれず、組織よりもそれを築いている人間を大切にし、お迎えが来る時に、お付き合いしてくれる天使が、私のことを、イエスのように「良いことをしながら歩まれた」と言って紹介してくれることを夢見ています。
 イエスのように、「癒す」力を持ちたいと夢見ています。イエスのように、私に「触れる」人は、例外なく、喜びに包まれることを夢見ています。そしてイエスのように、「福音=喜ばしい知らせ」を、言葉よりも、存在そのもので伝えられる夢を持ちたいと思います。
 本物の夢は膨れ上がっていくようです。闘牛士になるよりも、いいと思いませんか。
 中東での平和に実現も、人類の和解も、その夢を描きつつ、一歩一歩の歩みを通して、現実のものとなるのでしょう。