2009年7月  3.泣く
 一生のうちで、人間はどのくらい泣くのでしょうか。泣くとは、どういう意味を持っているのでしょうか。泣くのは、女々しくて男らしくないのでしょうか。問いかけてみればみるほど、疑問ばかりが湧いてきます。気のおもむくままに、素直に思いめぐらしてみました。
 人間の誕生はめでたい(もしかすると、生涯で一番めでたい)出来事なのに、赤ちゃんが生まれでた途端に泣くのは、どうしてなのでしょうか。おそらくその瞬間まで温かくお母さんの子宮でお母さんの愛に包まれて何の努力もせずに、何の不安もなく過ごしてきたのに、突然に未知の世界に投げ出されるからだろうと思われます。大人になってからも、泣くか泣かないかは別にして、経験のない未知の世界に踏み入れると、不安と恐れに襲われるのと同じことだと言っても過言ではありません。
 赤ちゃんが泣くのはまた、「ねだる」という意味を帯びてきます。聖アウグスチヌスでさえも、赤ちゃんと子どもの悪気(わるぎ)について述べているのは、そうしたわけに違いないと思います。しかし、泣くという行為は、もしかするとエゴを通すということよりも、自分の意志を表現する一つの方法だと考えた方がいいかもしれません。
 動物と同じように、泣くということは、相互コミュニケーションの道具であると言えるのではないでしょうか。
 人間は感動した時、とかくよく涙を流します。宗教的な体験と言える自分をはるかに超える神を身近に感得できた時に涙を流すのは、恥ずかしいことではなく、むしろ自然ではないかと思います。宗教的な領域だけではありません。絵を観ても、映画を観ても、音楽を聴いても、身が震える経験があります。もしかすると、宗教体験に通じるのかも知れません。現代では感動する場面が少なくなり、泣くことは少なくなったと言えるかもしれません。泣かなくなったことは、成熟したという意味では必ずしもありません。泣くことは、むしろ人間であることの証しだと思います。
 泣く人とともに泣く、これこそ愛の自然体なのです。しばらく前に乳ガンが再発して、泣いて来られた親しい友人とともに、私も泣きました。他に慰めの言葉がなかなか見つからない場合、一緒に泣くことは最高の分かち合いの恵みを意味するのです。
 少し前に私自身も健康診断で、もしかするとガンがあるかもしれないと言われて泣きました。泣く私とともに泣いてくれた人が大勢いたからこそ、嬉しい涙に変わっていったことを体験いたしました。
 泣くのは、決して決して女々しくて男らしくないというわけではありません。生身の人間である証しだと言えましょう。感動に目覚めたいと思います。泣く人の側にいて、黙って相手の手を握りながら一緒に泣きたいと思います。
 一緒に泣くことで、和解と平和の道具になることができますように。