2009年9月  1.み言葉とは
 教皇ヨハネ23世が言われたように、神の言葉は精神の光、心の糧、育む息吹です。それだからこそ私たちは光、生きる力、霊感をいただくために聖書を読み、黙想し、実生活にあわせて毎日の生活を豊かに生きることができます。
 教会の中で、よく使われてきたみ言葉は詩編です。教会の祈りの手引きとなった詩編の中からいくつかを選んで私たちの生活に指針を見出したいのです。そして詩編を読みながら旧約聖書と福音書の共通点がどれほど多いか明らかにすることができるでしょう。
 今回、詩編131を取りあげます。日本語訳は「教会の祈り」によっています。
 この詩編は現代の私たちにはなじみの薄い人間の姿を現しているように思われますが、神が描く人間の姿が記されています。

1.
神よ、わたしはおごらず、高ぶらず、
偉大なこと、身にあまることを求めようとしない。


 周囲を見渡すと、たいていの人は自慢し、他人を見下しがちです。
 他の人を支配して、自分の力を見せようとします。
 この私の弱さを目立たないようにして、私の心の望みを抑えたいのです。
 しかし、これは正しいことでしょうか。

2.
心静かに、わたしはいこう、
母の手に安らぐ幼子のように。

 
 人は誰でも、自分はもう子どもではない、立派な大人だと言うでしょう。
 しかし私は、母の乳房を吸って満足し、くつろぐ幼子のように神のもとで休みたいのです。
 幼子は、誰かの助けに頼らなければ生きていけません。
 幼子は、ただスキンシップや食事を与えるためだけに母親と結ばれているのではありません。
 母親とのきずなはより意識的に結ばれており、それは直接に心から結ばれています。
 真の意味での「幼子」の心を表します。
 そして私は、盲目的かつ自動的にではなく、安心して、確固たる信頼の心をもって、自らを神に委ねるのです。

3.
心静かに、わたしはいこう、
神の前にある幼子のように、
イスラエルよ、神を待ち望め、
今より、とこしえに。


 イエスや預言者の言葉が浮かんできます。マルコ福音書によると、人びとが子どもたちをイエスのところに連れてきたとき、弟子たちはこの人々を叱りました。しかしイエスは「子どもたちを私のところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである。子どものように神の国を受け入れなければ、決してそこに入ることができない」と言われます。
 預言者ホセアも次のように述べています。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。…… 私は人間のきずな、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎(あご)からくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた。」
 詩編も、預言者の言葉もイエスの言葉も、私たちに幼子の姿を模範とするよう促します。