2009年9月  2.神がともにいる生活
神によって建てられるのでなければ、
家を建てる人の骨折りは むなしい。
神によって守られるのでなければ、
町を守る人の警戒は むなしい。

眠っている間も、
神によって養われているのでなければ、
朝早くから夜おそくまで、
苦労してパンのために働くのは、むなしい。

子どもたちは神のたまもの。
生まれる子は神からの祝福。
若い時に生まれた子どもは、
勇士の手にある矢のよう。

多くの子どもを持つ者は しあわせ、
門で敵と争う時、恥を受けることがない。

(詩編127 日本語訳は「教会の祈り」)


 この詩編は日常生活の現実の考察から生まれたものです。基本的に次の対比を表わしています。神がともにいなければ、丈夫(じょうぶ)な家を建てようとしても、安全な町を作ろうとしても、労苦して実りを得ようとしても、むなしいものです。逆に、神がともにいてくだされば、人は財産と実りを得、子どもに囲まれた静かな家庭に恵まれ、守られた町に住み、常に幸せで平和に過ごすことができます。
 人は、朝、仕事に出かけ、勤勉に働きます。それは、自分の家族を養い、社会の発展に役立つためのものです。人は額に汗して一日中働きます。ところが、もし神が働く人とともにいてくださらなければ、これらすべての労苦はむなしいものです。にもかかわらず、神の恵みは、この人のわざを価値あるものとしてくださるのです。
 神は子どもたちを賜物として与えます。子どもたちは祝福と恵みであり、生命の継承のしるしです。詩編は、子どもたちに囲まれた父の姿を述べています。この父は町の門、すなわち人びとの生活の中心で、尊敬をもって迎えられます。したがって、子を産むことは、生命と社会に益をもたらす賜物です。現代は特に、このことを自覚したいものです。それは多くの国々が、人口の減少によって、子どもたちがいることで現れてくる生気と活力を失い、未来に希望をもてなくなっているからです。私たちとともにいてくださる神は、それらすべてを超える方です。神は、生命と希望の源です。
 福音書には、この詩編を理解するのに役立つ箇所があります。
 「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。…神は烏(からす)を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」(ルカ12・22-24)
 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのである。」(マルコ4・26)
 神は一人ひとりを心にかけてくださいます。そして土はひとりでに人間のために実を結ばせてくれるのです。