2009年9月  3.種を蒔く人のたとえ
 イエスは神の国を教えるために、たとえ話をされました。み言葉の力を示す「種を蒔く人のたとえ」はその一つで、神の国について詳細に説明されました。
 共観福音書の作者は、このたとえ話をよく記録しています。おそらく初代教会は、このたとえを使って祈りながら、自分たちの教会が置かれていた状況についてよく反省したことでしょう。ユダヤ人はキリスト信者になろうとしませんでしたし、異邦人も回心しようとはしませんでした。
 このたとえ話はまた、今の教会にとっても反省の機会になります。社会的、政治的運動を行うと、またコンサートなどを計画すると、大勢の人々が参加します。しかしカトリック教会が計画すると、多くても何百人しか集まりません。
 実は、ここでの種蒔きは、日本の農家が種を蒔く方法と全く違うので、理解しにくいたとえなのです。日本では種を蒔くとき一粒一粒を大事にします。中近東では広い畑に種をばらまきますから多くの種が無駄になります。ヨーロッパや、主に地中海の国々ではイエスのたとえ話のとおり種蒔きが行われて、作物が成長していきます。
 手で放り投げられて蒔かれた種のうち、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ある種は、石だらけで土が少ないところに落ち、根がないために枯れてしまいました。ある種は、茨の中に落ち、茨が伸びて種が実を結びませんでした。ほかの種は、よい土に落ち、芽生え、育って、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。この倍率は考えられないぐらいの量で、種の力を表わしています。
 イエスは説明されます。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。道端のものとは、み言葉を聞いてもサタンが来てみ言葉を奪い取ります。石だらけのものとは、すぐ喜ぶが後で艱難や迫害が起こるとすぐ躓(つまず)いてしまう、つまり、毎日出会う困難やつらさを乗り越えることができないのです。茨の中のものは、この世の思い煩いや富の誘惑やいろいろな欲望のためにみ言葉が実らないのです。
 信仰のための困難や迫害は避けられません。逆にそれに立ち向かうための力が湧いてきます。世の思い煩いを考えると、ラッシュアワーの駅の様子、駆け込み乗車、焦って道を急ぐ人などいろいろなイメージが浮かんできます。
 結論として、み言葉は無能なものではなく、それを受け入れ育てる土が問題なのです。
 み言葉には素晴らしい力があり、よい土で成長すると豊かな実を結びます。しかし、土が悪ければ実を結ばないのです。種が育つ畑、信仰が育つ心が乏しい場合、信仰生活は十分に実りません。
 昨年列福された188人殉教者を育てた家庭、教会、コンフラリア、組などは、信仰を育てる畑としてとても適していました。今の教会には、何が欠けているのでしょうか。