2009年12月  1.世の光であるキリスト
 待降節はこの世を訪れるキリスト、世の光である救い主の誕生を待ち望む時であり、  クリスマスに向けて準備する期間でもあります。大都市は夜であっても明るいですが、人間の心にはいろいろな影があります。世の思い煩いのために悩んでいる人、リストラのために仕事を失った人、社会の動きに合わせられない人、学校のペースに乗れない子ども、いじめ等を受けている人。数知れない問題をかかえ、不安になり、ついていけない人が数多くいます。彼らは希望のない毎日を送らなければなりません。この暗い世界を照らすために世の光であるキリストがお生まれになったのです。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9・1)と預言者イザヤが歌っています。イエスも「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8・12)と言われます。

 この闇とは何でしょうか。光のない状態でしょう。そのような状態の中では、人は歩行困難となり、障害にぶつかります。真っ暗な夜道をあえて進もうとすれば、つまずき、転び、どの方向へ進んでよいか分からなくなってしまいます。闇とは、このような、光のない状態のことです。

 「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12・35-36、46)。人は暗がりの中では、どこへ行くべきかを知らないのです。

 この闇の状態をある聖書学者は「内的な方向音痴」と言っています。心がばらばらに分裂していると、人はどこへ行くべきか、どのように歩んだらよいか分からなくなります。そして迷ってしまいます。

 熱心な信徒、司祭、修道者なども、このような状態に陥ることがあって悩むのです。
 そこから救ってくださるのは、世の光であるキリストです。