人が光のありがたさといったものを経験し得るのは、たとえば山歩きで道半ばにして迷い、刻々と夕闇が迫る中、一条のランプの灯火だけが頼りに人里を眺望できる地点に至った時かもしれない。また、まことの光への希求が沸き起こるのは、人生の混沌とした闘争に打ちひしがれ、苦渋に満ちた境遇の中から新たな覚醒を求める〈悲哀の経験〉を通じてであろう。大詩人ゲーテの臨終の言葉も「もっと光を!」であったように、生のはかなさに諦観しつつも照らしを受けて新たな空間に蘇生することへの渇望は、今も昔もすべての人の心に深くうずいている。聖書は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9・1)という旧約の預言の成就を、人となられた神の活動、イエス・キリストのご降誕に始まる出来事の内に見出した。他方、「闇の中を歩む」もしくは「死の陰の地に住む」と表現される克服し難き実存状況は、神の憐れみと恵み無くしては今日の人間も同様に不可避的に巻き込まれている境涯を指し示していると言える。「枯れゆく草に等しい肉なる者」(イザヤ 40・6-7)である限りでの人間は、いかに自らを高めても、輝き出た光の相続者となるわけではない。しかしだからこそ、外来のものではなく「人間を照らす内なる光」(ヨハネ 1・4)への希求は、「人心の最大最深なる宗教的要求」(西田幾多郎)として枯渇することはないのであろう。教会の新しい一年、待降節のこの希望のメッセージを心に留めたい。 |