2009年12月  4.受肉の神秘を生きる
 ヨーロッパ中世の或るキリスト教神秘家は、一つの説教の中で次のように述べている 。 「もしもマリアが先ず霊的に神を生まなかったのならば、神は決して彼女から肉体的には生まれなかったであろう、と私は言いたい。一人の女が主に、『あなたを宿した胎は、なんと幸いなことでしょう』(ルカ11・27)と言った。すると主は、『私を宿した胎だけが幸いなのではなく、神の言葉を聞き、それを守る人が幸いなのである』(ルカ11・28)と答えた。神がマリアから肉体的に生まれるよりも、霊的にそれぞれの処女から、つまりそれぞれの良き魂から生まれるのを、神は嘉せられる」。
 この説教の言葉の主旨は、私たち一人ひとりにおけるその魂の根底からの霊的誕生にこそ神の恩寵の業が真の実を結ぶことにあろう。中世キリスト教の理解では、(聖)霊の働きと身体的次元での出来事との乖離が信仰の秘儀を捉えるための枠組みとなっていることは否めないが、逆にこの言述では「神の子の誕生」という出来事が単に遠い歴史的な場所においてではなく、正に私たちにたった今、生起し得る霊的再生であることを呼び起こす。
 今日、神の子の受肉は信仰生活においてどのように受け止められ得るのだろうか。 人間と人間的世界の現実がその最底辺に至るまでイエス・キリストの生と死において神の内へと受容され、神の霊的生命へと懐胎されるプロセスにあることをこの秘儀の観想からより深い確信をもって実感できるならば、わたしたちが〈受肉の神秘を生きる〉ということ自体がその都度神がなされ開設される恵みの業であり、全現実に対する慈しみに満ちた救いの営みに他ならぬことが自覚されるであろう。