2010年1月  2.不幸せなマリア
 クリスマス、聖家族と進んできた教会の暦も、年が明けて神の母聖マリアの祭日を迎えました。世界中のカトリック教会は、教皇の平和のメッセージに心を合わせて、自分の住む最も身近な場所から、平和の礎を築き上げていく使命をいただいているのでしょう。この新しい年を平和のためにささげて、日々を過ごしてまいりましょう。

 マリアの生き方には、平和に向けて歩む知恵があふれているように感じます。教会では、「幸せな方マリア、恵みあふれるマリア」と歌います。マリアは本当に幸せだったのでしょうか。恵みがあふれていたのでしょうか。
 受胎、ベツレヘムの馬小屋での出産、エジプトへの逃亡、そして、わが子の十字架上での死。実際のマリアの生活は、この世的な価値基準からすれば、不幸の連続だったのです。結婚していない時に受胎します。ヨセフはよい人だったので、ことは穏便に収まりますが、律法に従えばマリアは死罪で石打の刑に処せられるところでした。宿屋に泊まるところがなかったので、馬小屋でイエスを産みます。旅の途中ですから、本当に大変なことだったのでしょう。陣痛が始まって、だんだんとその間隔が短くなるその痛みの中で、隣にはただヨセフがいるだけ。子を産む母としては、何と不幸せなことでしょう。
 生まれるとすぐに、ヘロデ王の子殺しの令から避けるために、エジプトに逃げます。ヨセフは大工でしたが、逃亡先のエジプトで、職に就くことができたのでしょうか。聖家族は、政治難民であり、野宿者であったとも言えるのです。
 最後は、わが子が死罪となって、十字架上で殺される場面に立ち会いました。息子からは「婦人よ」と呼ばれます。母として、どのように感じたのでしょうか。「幸せです」と言えるでしょうか。

 マリアは、いつも思いめぐらします。そして、委ねます。神のみ旨が行われますように、祈ります。この世的なすべてのことを超えて、神を信じます。この単純明快な信仰の姿ゆえに、平和が訪れるのでしょう。マリアは、この世的にはどんなに不幸であっても、神を信頼し、神に望みをおくことによって、「幸せ」に至るのでしょう。
 私たちも、この信仰に倣って、日々をささげましょう。毎朝の祈りで、「母なるマリアよ このささげものが イエスのみ心にかなうものとなるよう とりなしてください」と結び、神の母聖マリアのとりなしと、ご加護を願うのです。