2010年2月  2.宣教のアイデンティティ
 この意向が何を意味しているのかを正確に知るのは容易ではありませんね。英語で表現するなら、ミッション・アイデンティティ(mission identity)となるのでしょうが、「ミッション」も「アイデンティティ」も、複雑な意味をもっているため説明が必要です。
 まず、「アイデンティティ」の方から考えてみましょう。辞書をひもとけば、「自己同一性」とか「個性」「独自性」などの訳語が並んでいますが、今回の意向で最もピンとくるのは「主体性」でしょう。自ら進んでおこなうこと。人から言われるからではなく、自分で考え、納得し、行動するという意味にとりたいと思います。
 「ミッション」という言葉も、たいへん難しい内容を含んでいます。「派遣」という言葉、あるいは「使命」という言葉が思い浮かびます。またキリスト教で「ミッション」といえば、国や文化を越えて「キリストの福音」をもたらす「宣教」の内容、あるいはそのために行う様々な業をさします。ミサという言葉の語源は「派遣された」(mittereの過去分形missus, missa)は同じ言葉から派生しています。
 このように考えると、祈りの意向が少しははっきりとしてきました。「キリストの福音」を伝えるために、自分から進んで行動すること。そのために祈るということでしょうか。
 私たちキリスト者は、現代社会の中にあって、教会よりもさらに大きな拡がりをもつ世界のなかで生きています。信徒は数少なく、大半がキリストの福音を知らない人々です。そうした環境のなか、キリスト者が100人いれば、100通りの対応の仕方がありえます。家庭で、学校で、職場で。あるいは仲間、上司、部下との関係においてもバラエティがあります。そうした環境で、キリスト者は、自身の「生き方」をもって、福音の神髄を示すことが求められています。
 物腰が柔らかく、寛容で、慈悲深くバランス感覚のある人だと周囲の人々が私のことを認めてくれれば、人はその良さの理由をも知りたくなるでしょう。そして、やはり「キリストの福音」を知っている人は生き方がその結果だと思ってくれれば、それは大きな「ミッション」を果たしたことになります。司祭が説教壇から、作家が書物から、「キリスト」を説くより遙かに大きな印象を人々に残すはずです。つまり、私たち一人ひとりが「ミッション」の現場にいるということです。それを、はっきりと「自覚」し、人の真似ではなく、自分の信ずるところから信念として行動できたるとしたら、「宣教のアイデンティティ」は実現されるのではないかと感じます。
 一人ひとりの信徒が、「キリストを伝えるため」に遣わされるのだという自覚をもつこと。そして、その恵みの深まりをさらに祈り求めるようにというのが今回の意向の中心にあると思います。司祭や修道者でなくとも、一人の人間として、私たちは「ミッション」に召されているのです。