2010年2月  3.重病の人のために祈る
 今月、祈りの意向として、教皇ベネディクト十六世は、病床にある人々、とくに重病で、回復がひじょうに難しい人々を思い起こして祈ることをすすめています。
 健康なとき、自分で自分のことができるとき、私たちは「病気」のことを忘れています。言い換えれば、病人の本当の気持ちは分からないのです。しかし、一度、自分に「病」が襲うと、「なぜ、私にだけ」このようなことが起こるのだろうかと憤りを感じることになるでしょう。病とは理不尽で、突然で、残酷なものです。
 私の知人に癌を患ったアメリカ人の司祭がいました。頑張り屋で責任感の強い方でした。持ち前のバイタリティから、中国に宣教に行きたいと、40歳を越えてから、中国語を一所懸命学んでいました。ところが、ある日、喉に異物感を訴え、検査してもらうと、舌の奥にできた、かなり進行した癌でした。それから、2年間、彼の十字架の日々が続きました。最近の医療では、癌を切除することが最善だとはみなされず、放射線などを駆使して癌そのものを消滅させようとする治療が続きます。これは体験者にしか分からないようですが、たいへんな負担を強いるものだそうです。彼は、日本での治療もうまくいかず、アメリカでの手術を終え、最期は日本でということで、帰国しました。癌の発見当時から、ほとんど話すことができず、以前の颯爽(さっそう)とした姿は消え、意志をあらわすことだけでも辛そうでした。
 このアメリカ人司祭は、病気が判明したとき、どのように思ったでしょうか。「なぜ私が」、と思ったのは確かだと思います。しかし、ご自分の人生の意味に、なんら抵抗することなく、神の御旨にゆだねる決意をされたようです。2年の闘病生活の間、彼は人に何か要求したり、訴えたりすることは全くなかったからです。いつも静かに看護の方々の言葉にしたがっておられました。元気なころは忙しくてできなかったけれど、ベッドの上ならできる仕事を、コンピューターのキーボードをポツポツとしか打つことができなくなるまで取り組んでいました。このような方々がきっと、私たちの周囲にはたくさんおられることでしょう。先日も、築地の癌センターで、眼に大きな眼帯をあてた若い女性とすれちがいましたし、毎日の痛みと同居しながら生きておられ、いつ身動きできなくなるかと不安を抱えている方もたくさんいるのです。
 私たちは、聖母の取り次ぎを願ってこの方々の回復を真剣に祈らなければなりません。それは精神的な治癒であるとともに、実際の体の治癒にもなりますようにと。祈りは奇跡を信じる心です。祈りは奇跡を起こせます。余命半年と宣告されたのに、毎日の祈りを支えに、その後20年元気で過ごされた方を知っています。たしかに奇跡は起こるのです。
 そして、私たちも、彼らの辛い体験から学び、祈ってもらう存在であることを忘れてはならないと思います。いつ何時、私たちは「なぜ私に」と自問しなければならない日がくるかもしれないからです。