2010年5月  1.人身売買
 日本経済はこの20年ほどで次第に国際化され、そして分業化も飛躍的に進み、個々人の目にはその全体はますます隠され、分かり難いものになってきている気がします。東京の街並みはきれいでも、そこで働く人たちの労働環境は、ウィンドウ・ショッピングのために、あるいは買い物のために訪れる人の目に入ることはないでしょう。「人身売買」というと、どこか遠い時代、遠い場所でのできごとのようにも感じますが、実際の私たちの社会の一部でもあります。
 「人を、その人の人格を無視して、まるで物を扱うように、金銭の授受をともなって商取引の対象にすること」が人身売買です。そこにはいろいろな形があります。中国、東南アジア、中南米などが輸出国となり、先方国と日本のヤクザを流通経路として、日本のナイトクラブや、性産業が受け皿となるケースが一番顕著な例でしょう。口車にのせられてか誘拐されて、不安のうちに異国に移送され、威圧的な男たちに恫喝(どうかつ)され、パスポートを取り上げられ、見張りをつけられた居室に閉じこめられ、言葉も通じず、軽蔑するようなまなざしを向ける客の相手をさせられる。
 世界的には、貧困な家庭から送り出された子どもたちが、家庭の召使いとして、工場の労働者として、また性産業の場で、ほとんど奴隷的な権利環境で使役される事例はいまだに絶えることがありません。
 また労働力確保を目的とした日本の外国人研修制度にも、その運用実態によっては限りなく人身売買に近いケースが多くあるように思います。ただ後者の例では、雇用者と被雇用者のあいだで、労働環境、賃金支払いなどの実態を外部にもらした段階で解雇・強制帰国となる構造ができあがっている場合が多く、前者の場合ほど、社会的に認知されにくいだけのことだと思います。消費社会化された日本の法制度と商慣行は、消費者の権利は保全しても、こうした人々の人権は守らず、かえって人権と人格の毀損(きそん)に荷担しているように見えます。
 イエスは、男も女も、律法学者も罪人も、漁師も徴税人も「とも」「なかま」として受け入れ、その一人ひとりの人と食事をし、旅をし、あるいはともに地面にすわりました。パウロは、はじめに彼を迫害していた自分を受け入れてくれたイエスの姿勢を忘れることなく(キリスト者に)「外国人も、寄留者もない」と語り、イエスを「すべての隔てをとりのぞき」、その隔てをつくっていた「律法を滅ぼした」人だと語っています。
 一人ひとりが、人との出会いの中で傷つけられることは悲しいことです。しかし社会が集団としてまた制度として、人を否定するとき、その否定はそれを受けるものに、絶望と自己否定、あるいは憎しみと怒りを残します。イエスが、自分の腹に「慟哭(どうこく)」と「いきどおり」をおぼえたのは、いつもまさにそのような瞬間でした。制度としての律法が権力と結びつき、公のものとして、神の愛から切り離されて、人を罪と欲望へと断罪するために用いられるときです。社会から隠された場所にこそ、神の苦しみはあり、神の愛はそこに向けられていると思います。