2010年5月  2.現代における従業員と顧客
 私は自分を含めて日本人が、これまでにない仕方で「顧客」「消費者」という地位のなかに押し込められてきているような気がすることがあります。市場社会のなかで顧客満足度という基準は、視聴率が情報メディアの構造を決定するのと同様の厳密さで、製造業、小売業の経営判断を、そして間接的にその現場を支配しています。また消費者庁の設置に見られるように、消費者の権利の保全は、通商、産業、労働、厚生などの政策課題と比肩するものとなりました。そうすることで私たちの自己理解は、一面ではますます、流通の末端に位置づけられるこの地位に刻印されたものになっています。
 以前は海外旅行をした人にとって、西欧での店員の不親切はおきまりの土産ばなしの一つでした。確かに――よくあることですが――ヨーロッパで店員がニコリともせずに応対し、また西欧語の不自由な私たちの都合も考えず、自分たちのことばで一方的に話し、また話を打ち切ってしまうことは、私にも経験があります。それに比べ日本の店舗では、「いらっしゃいませ」という言葉にはいつも笑顔がいっしょについてきます。顧客の話を聴き、客の要望にはできるだけ応じ、場合によっては(価格を)「勉強し」、クレームには平身低頭に頭を下げてくれます。
 しかしそれがマニュアル化された従業員教育の結果であることを思い、またそうした教育をする経営者たちが、経営関連の雑誌などで「お客様は神様です」と語るのを読まされるときには、違和感をおぼえます。もちろん、そうした現場で若者が生活の糧を稼ぐことをならい、社会人の自覚を持つというメリットはあります。しかしやはり店などで、自身が顧客であることによって、特別な権利を持っているかのように振る舞う「顧客」がいるのを見るときには、その人の個人的な問題とともに、この商習慣について疑問を感じることを禁じえません。
 イエスはだれをとも「人」として付き合いました。大工を家業として持つ家に生まれた彼には、誰とも対等に話す習慣と気概があったのかもしれませんが、彼はそれでも詭弁的な人たちに対しては、場合によっては論理的な「とんち」をはたらかせて、そこをうまく切り抜ける才のある人でもありました。異邦の婦人を冷たくあしらうこともありましたが、少し話すうちにはかならず、商人であれ、法学者であれ、男であれ、女であれ、ただ目の前にいる人をそのままに受け止め、また愛することのできる人でした。
 「お客様は神様です」という台詞を大事にした演歌歌手がいました。彼は歌うことで人を励まし、また人を笑顔にすることを自分の天職と感じ、そこに自分の生命のよろこびを感じていたように思います。すくなくとも彼の笑顔は、そこに疑念を差し挟む余地を与えないほどのものだったことを覚えています。コンサートという場所で人と人が互いに、一方はその励ましを受け取ることで、他方は自分の歌が人の心のうちで実りをもつのを見ることで、自身の生命の充実を与え合うものとなっていたとすれば、そこにこそこの台詞は意味をもったことでしょう。はたらく人とその便益を受ける人とは、互いに感謝の言葉を送りあえる関係であってほしいと願っています。