2010年5月  3.「司祭、修道者、信徒」と宣教
 九州の五島の教会を訪ねたことがあります。五島は海岸が入り組んでいて、入り江も深い。それは夏のことでしたから、空は青く、雲は白く、島の木々の緑はとても強かったです。一つの岬をまわると、入り江の一番奥に、それも小高い丘の上に教会が、海の青と、山の緑を背景にして、白く輝いて建っていました。その入り江の町に、港は一つ、学校も一つ、そして教会はその真ん中にそびえていました。教会を訪ねると、平日にもかかわらず黒いスータンを羽織った司祭が出て来られて案内してくださいました。聖堂に入ると、やはりいかにも修道女らしい白黒のハビト(修道服)を着たシスターが子どもたちを前にして告解の仕方を教えていました。そのうち信徒さんたちも入ってきてミサが始まりました。長いながいお祈りが、いくつも入ったミサでした。
 「司祭−修道者−信徒」ということばを聞いて、私がまず思い出したのはそんな教会の景色でした。教会は司祭を中心にした宣教チームで、司祭の手の届かないところはシスターやブラザーが助けてくださる。そのようなイメージです。しかし私は、東京に住んでいて、この街を見ていると、そのような宣教チームをすぐにイメージしにくくなっていることに気づかされました。そこで、ここでは少し「今風の」教会のイメージを模索してみたいと思います。
 「司祭」「修道者」「信徒」のなかで、一番人数が多く、それゆえいちばん個性も豊かなはずのグループは、「信徒」という一番簡単なことばでまとめられてしまっています。司祭も、シスターやブラザーも、祭服や修道服を着たりしていて、教会のなかので役回りもある程度決まっていますから、名前ではなく、「神父さま」とか「シスター」と呼んでもいい気がしますが、もし「信徒さん」と呼ぶならば、それはいただけません。この「信徒」のなかにこそ、たくさんのタレントやカリスマ、そしてたくさんの種類の愛情もつまっているのですし、実社会で、そして生活の現場で、人々に直(じか)に出会う人たちばかりなのです。もちろんどんな人でも、教会に来たときだけは自分の肩書きを脱いで、肩の荷を下ろして、ただ神の子として、神の前に座れることはありがたいことですけれど、逆に神からメッセージを託されて、人々に出会うように教会から送り出されるときには(「宣教」)、持っているものは何でも使って、一番かがやく自分の個性を使って活躍して欲しいと思います。
 本当は、教会のなかでもそうであって欲しいのです。私が以前通っていた教会には、養護学校ではたらいている「おじさん」がいました。マイペースで、たくさん話す人ではなかったのですけれど、まわりの人のことをよく見ていて、誰かが少し手持ちぶさただったり、疲れた表情をしていると、必ず話しかけて、相手をしてくれていました。司祭は忙しいですし、シスターは少し頑張りすぎる人でしたが、この「おじさん」がいてくれて教会はとても居心地がよかったのです。
 ときどき、教会のみんなが「神父さん目線」(司祭のことを気にしすぎて)になって、よくまとまり過ぎていると感じることがあります。教会は、一人ひとりのカリスマを持ち寄ってでき上がる場で、宣教はそのカリスマを――「司祭―修道者―信徒」という身分に関わりなく、ただし監督は司祭の役割ですけれども――効果的に組み合わせて、出会う人に神からのメッセージを伝えるものだと、「信者」全員が考えてくれたらいいなあと思います。