2010年5月  4.良心の自由と信教の自由
 良心と信教の自由のことを切実な問題として感じるようになったのは、ある司教から幕藩下で殉教したキリシタンの方たちのお話しをうかがってからのことです。彼らの中の多くの方たちが、どんなに迫害されても信仰を捨てなかった理由を、「絶対的な一(いつ)なる神への信仰によって、多くの人が生まれてはじめて、良心と心の自由を体験し、神の前に一人の人間として生きる喜びを感じ、また自由な人間というものの尊厳を自分のなかに見出したからですし、自分の心をもう二度と奴隷のくびきにあずけようとは思えなかったからです」と説明なさいました。その日はこのお話の前に、殉教者たちの苦難をこと細かにうかがった後でしたので、殉教者たちがそれでも手放さなかった喜びと尊厳の感覚を生々しく実感した気がしまして、その後ずいぶんいろいろと考えさせられました。そして、ただ歴史的な出来事としてではなく、日本のすぐ近くに未だに公式には信教の自由が認められていない国もあるのですから、私は、この自由のために祈りたいと思いますし、また、できることがあれば何かしたいとも思います。
 「考えさせられた」というのは自分の良心の問題だったのです。キリシタンたちはただ信教の自由を生きただけではなく、その喜びを良心の自由としてはっきりとつかんでいたことを、改めて感じさせられたからです。彼らは、司祭がいなかったせいもあって、何ごともよく話し合っていました。信仰と生命がかかっていたということもありますが、何ごとも他人まかせでは決めなかったようです。そして、良心の自由を自覚していたからこそ、「こんひさん」(ゆるしの秘跡)には細心の注意をはらいました。この秘跡をとおして、あの人たちの「良心」がまた新たにされていたのが分かります。ですから結局、私は「自分はどれだけ、信教の自由と良心の自由を生きているのか」と遠い時代をこえてキリシタンの方々に問いただされた気がいたしました。