2010年7月  4.聖体の恵みを悟る
 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10・16-17)
 私たちの信仰生活の頂点である聖体の秘跡は、まさに神秘であると言えます。キリストの体をいただく私たちが、キリストの体を建設していくその主体であるということを冷静に考えれば、驚き以外のなにものでもありません。
 しばしば人は「批評家」になります。教会の問題を批判し、社会を批判し、身近な共同体を批判します。批判する時、「私」はその批判の対象の外側から見つめています。あたかも、私にはまったく責任がないかのような錯覚を持って批判しているときがあります。しかし、私たちが気づかなければならないのは、私たちがイエスの愛という神秘を通して結ばれている、「一つの体」であるということでしょう。「私」が批判しているのは「私」の「体」であるということに気づく時、私たちは問題をもっとやさしく、しかし真剣にとらえることができるのではないでしょうか。私の体であるのだから、問題に対していたわりの心が生まれます。私の体の問題なのだから、他人事ではなくまじめに考えざるをえません。
 ある小咄(こばなし)を思い出します。貧しい少女が路上で生き倒れになっているのを見て、ある人が神に叫びます。「神よ、どうしてあなたは何もなさろうとはしないのですか!」と。そこで神は答えました。「わたしはあなたをそこに遣わした」と。
 キリストの救いの働きは、どこかの誰かがやるのではないのです。どこかの団体が人々を救うのではないのです。今、ここに、キリストの聖体によって結ばれた、私がキリストの体なのです。本当の意味で私たちがキリストの聖体を理解し、キリストの救いの働きに身を委ねていくことができるように、互いのために祈りましょう。