2010年8月  1.人々の住まう心の広さを
 先日、日韓併合100年に際して朝鮮総督府が当時作ったプロパガンダ映画について、内海愛子氏の講演がありました。「日韓併合に対し、抵抗する朝鮮人もいたが、日本側のプロパガンダ映画に出演して協力する韓国朝鮮人もいた。同じ立場にありながら、見えている人たちと見えていなかった人たちがいた。そして、この話は決して100年前の過去の話ではない。今、私たち日本人が見えていること、見えていないことをここから考えなくてはならないのだ」という話でした。質疑応答では、オリンピックのようなスポーツが国威発揚のために政治家にとっては使いやすいのだという話が挙げられ、「『日本チャチャチャ』とただ声を合わせることも、よく考えなければならない」という内海氏の応答は印象的でした。というのは、私自身が自分の中にそのような問題を感じていたからです。
 時は、サッカーW杯まっただ中でした。この講演のおかげもあってか、その夜に行われたパラグアイ戦では日本は惜しくも負けてしまいましたが、私は相手側に拍手を贈ることができました。パラグアイの人々と共にサッカーを観戦しているつもりになれたからです。あの日韓併合当時、同じ韓国朝鮮人という立場にある人々の中でも、加害者になるか被害者になるかは紙一重の差でした。その違いは、一つには、抑圧されている人々を心の中に置くことができたかどうかにあるのだと思います。
 奇しくも、ある分かち合いで、一人のアルゼンチン人の司祭が同じ思いを分かち合ってくれたのは驚きでした。「多くの外国人と生活して観戦した今回のW杯は、私の心を広げてくれた」と。たかがサッカーではない、真実がそこにあるように感じます。
 私たちができることは限られているかもしれませんし、最初の一歩に過ぎないかもしれませんが、たくさんの人が私たちの心の中に住むことができるように心を開いていくこと、受け入れていくことが大事なのではないかと思います。どうか、私たちの心が広がっていき、たくさんの苦しんでいる人の住処となれますように、祈りたいと思います。