2010年8月 3.マリアとともに平和を祈る |
![]() 長崎の被爆のマリア像は、とても印象に残るものでした。戦争の残酷さ、巻き込まれた人々の悲しみをすべて背負い、その天主堂の焼け跡に残った黒く焦げたそのマリア像は、平和を訴え、祈り続けています。聖母マリアを思うとき、彼女はそのような人であったと思うのです。イエスの十字架の下に立ったマリアは、世界の人々の悲しみをその身に背負われました。確かに、あまりにも深い、筆舌に尽くしがたい悲しみをマリアは担われたと、私は思います。しかし、マリアは同時に信仰の人でした。彼女は、カナの婚宴でぶどう酒が足りなくなったことをイエスに告げ、何とかしてくださるように願ったとき、一度はイエスに断られても必ず聞き届けてくれると信頼していました。イエスを失って後、その悲しみが何のためのものであるかそのときは分からなかったとしても、神はその悲しみを必ず喜びへと変えてくださるという信頼を、マリアは失うことはなかったのではないでしょうか。 私たちは、このマリアの心で平和を祈りたいと思います。犠牲になった人々の悲しみに連帯すること、その悲しみを神へと捧げていくこと、そして平和への希望を絶やさず生きていくこと。 戦争の記憶の風化とともに、ナショナリズムが強まっているように感じます。核兵器の問題、沖縄の米軍基地の問題は、私たち一人ひとりにはあまりにも大きすぎるかもしれません。しかし、祈り、行動へとつなげたいと思うのです。貧しいものとして生きられたマリアのように、圧迫されている人々、特に今、沖縄の人々と連帯して、平和を祈りたいと思います。 |