2010年8月  4.排除するのではなく、中心におくこと
 東京スカイツリー建設・観光都市化のために、墨田区の公園内から野宿生活の人々が、荷物を処分され、強制的に締め出されたという記事がありました。渋谷の山下公園など、他の公園でも、野宿者を排除しようとする行政のやり方は枚挙にいとまがありません。東京都は「安全・安心まちづくり」を推し進めていますが、異質なものを排除することで自らの安全を確保しようとする人間の傾きが、このような出来事にはっきりと現れているように思われます。
 未曾有の不景気で失業し、野宿生活を強いられる人がいる一方で、新自由主義を旗印に掲げる政党が支持率を上げています。この人間の欲望を原動力にする資本主義経済は、貧富の格差を拡大しながら、その犠牲者たちを巧妙に社会から排除し、目に見えないものにしていくのです。多く持つものが声高にさらに権利を主張し、持たないものは沈黙の闇へと追いやられていきます。この資本主義という暴走列車は、ぎしぎし鈍い音を立てながら、破局へと向かっていっているように思います。
 この社会の強者は決まって声高に言うのです。「弱者を大切にすれば、経済力が低下する」と。果たしてそうでしょうか。弱者を中心に据えて社会を変革していくときにこそ、真の幸せな社会へと近づいていくのではないでしょうか。キリスト教は伝統の中で貧しさのうちにある豊かさを大切にしてきました。不必要なものを持たないこと、何かにしがみつこうとすることから解放されていくことに、真の自由と心の温かみが生まれると教えています。それこそがイエス・キリストの清貧でした。最近学んだことなのですが、「貧」は「貝(食べ物や貨幣)」を分けると書きます。貧しさのうちにある豊かさとは、分かち合うことなのです。そして、皆が分かち合うならば、貧困問題は解決されていきます。だからこそ祈りたいのです。「安全・豊かな社会」という標榜のもとに、周辺へと追いやられていく野宿者、失業に苦しむ人々を中心に置くことができるように、と。そして、私たちがイエス・キリストの貧しさの価値を深く知り、分かち合っていくことができますように、と。