2010年11月  1.依存と信頼
 教皇は一般の意向で「薬物依存や他の依存症」を取り上げています。この意向について、掘り下げて考えてみましょう。
 「依存」とは、何かにより頼んでしまうこと。依存度は、普通、増すことはあっても減ることはありません。気がつけば、すっかり自分の自由は拘束され、そのものに支配されています。私たちは、大なり小なり、何かに依存して生きています。これは、弱い人間として、ある意味で自然なことと言えるでしょう。しかし、問題は、それによって適切なバランスが崩れ、心身ともに病んでいくことにあります。ギャンブルや薬物はもちろん、百薬の長と言われる酒も、度が過ぎれば、その先は目に見えています。
 「主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18)。
 イエスはここで、「解放」と「自由」について語ります。この二つの言葉は、実は、同じ「アフェシス」という言葉の訳語です。「アフェシス」はまた、「赦し」とも訳されます。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1・4)。赦しとは、罪から解き放たれること、真の自由とされることです。
 真の自由は、人を希望へと招きます。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、・・・」――宮沢賢治の有名な“雨ニモマケズ”です。彼が死の直前に作った詩です。その最後は、次の言葉によって、私たちに語りかけます。「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ。」
 驚かされます。いったい、彼は、何を語りたかったのでしょうか。というのは、ここで彼が表していることは、いわゆる、世の中の価値観とはまったく反対のことだからです。また、彼は、最後を次のように結んでいます。「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ。」なるべきだとは、語りません。もしそのように語ったとするならば、それは義務であって、決して自由を与え、希望へと誘うものとはならないでしょう。開かれています。だからこそ、この詩は生きているのです。
 イエスは語ります――「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5・3)。このイエスの価値観もまた、世のそれとは正反対のものです。逆説であるがゆえに、真の自由と希望へと開かれています。
 依存と信頼は、異なります。依存は、それによって私たちの自由が奪われますが、信頼は、それによって私たちをいっそう自由へと招きます。なぜなら、そこには期待と喜び、そして安心感があるからです。私たちが真に平和となるのは、このときです。その平和においてこそ、私たちは、生きる力、いのちのことばと出会います。
 「人の口は、心からあふれ出ることを語る」(ルカ6・45)――私たちは、普段、どのような言葉を心に抱き、育み、それを生きているのでしょうか。大切なこと、それは、難解な言葉をもてあそぶことではありません。むしろそれは、妨げとなるでしょう。素朴で優しい言葉であればあるほど、深く人の心の奥深くに染み込み、自由にします。
 神のみことばは、幼子となって、私たちの間に宿られました(ヨハネ1章参照)。