2010年11月  4.貧しい人々を優先するという選択
 グローバリゼーションによって、ラテンアメリカには新しい顔の貧困者たちが現れてきました。移民、暴力の被害者、家を失った人々、難民、高齢者、多くの失業者、新しい技術についていけない人々、路上生活者などの人々がその顔の持ち主です。
 「イエス・キリストは人間の顔を持った神、そして神の顔を持った人間である」と私たちの信仰は宣言します。それゆえ、この貧しい人たちを優先するという選択は、私たちを豊かにするために、貧しくなってくださったその神への信仰に基づいています。
 キリスト者は、弟子としてまた宣教者として、苦しんでいる私たちの兄弟たち一人ひとりの顔の中に、そのような方々に仕えるようにと私たちを招いているキリストの顔を見るように導かれています。つまり、貧しい人々の苦しむ顔はキリストが苦しむ顔なのです。「私の兄弟である最も小さいものの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25・40参照)。なぜならキリストにおいては、偉大なものが小さくなり、強いものが弱くなり、豊かなものが貧しくなったからです。
 キリストの信仰から連帯性が生まれます。連帯性は、最も弱く疎外された人々の生命や人権を守ることを、まず第一に目に見える形で選択し、また第二には行動するということで表さなければなりません。
 教皇ベネディクト十六世が思い出させてくださったように、貧しい人々が直面している耐えがたい社会的・経済的不平等な状況が表出する中で、教会は彼らの権利を弁護し守るように呼び集められています。
 私たち、ラテンアメリカ教会は最も貧しい兄弟たちの旅の同伴者として、たとえ殉教することがあっても、ともに歩み続けるために働かなければなりません。ロメロ大司教や7人のイエズス会員は貧しい人々の立場に立って殉教しました。
 私たちが貧しい人々を優先的に選択することは、具体的な行動に表現されるような絶え間ない姿勢が必要です。イエスご自身が行いと言葉で示されたことを私たちは忘れてはいけません。「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(ルカ14・13)
 私たちは、弟子として宣教者として、司牧計画の中で生命と連帯の福音の実現を推し進めることを望んでいます。そして、教会はそれがより効果的に拡がるように望んでいます。そのために、社会的に関わる信徒を養成し、参画することを強く勧めます。
 ヨハネ・パウロ二世がおっしゃったように、皆が連帯する努力を通して人々の生活をもっと人間らしくするために実行することは、それが不完全なものであっても、仮のものであっても、神の恵みにより、無駄や空しいものにはなりません。
 日本の教会も、貧しい人を優先的に選択するように招かれているのではないでしょうか。