2011年1月  1.創造の賜物であるわたしたちの生
 世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉について、白州正子さんという方がおもしろい事を書いておられます。世阿弥は、初心を〈若年の未熟な頃の初心〉〈時々の初心〉〈老後の初心〉の三つに分けて考えていた、というのです。単に事始めに当たっての溌剌としたうぶ初心の志操を言うだけではなく、壮年期に芸が熟練を重ねて躍進を遂げる折々に刷新的に立ち返る初心をも意味し、また人生の秋を迎えてもそれに相応しく若者には出せない味を発揮する瑞々しさへと成長するところの原動力でもあります。このように人間の生が、日常のしがらみに埋没して安寧に身を委ねてしまう惰性化・頽落傾向を突破し、自ら自身へとより結晶化する可能性をその本源から生きうる非連続面を有する力動性を本来の土壌とするところに、《創造》の現実を受け止めるための最初の洞察の手掛かりが見出せるでしょう。(「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」 黙示録 1・5)。
 トマス・アクィナス(1225-1274)は、「創造とは、…存在の新しさを伴う神への或る関係である(creatio est … relatio quaedam ad Deum cum novitate essendi : Pot q. 3 a. 3 c)」と述べています。これはもちろん、ユダヤ―キリスト教における創造理解の定義めいた定式化などではありませんが、それ自体からは脆くはかないすべて存在するものの有限な現実がただ唯一神へと依拠していることによって、存在の絶えざる刷新に与り存在の深まりへとも邁進してゆくことを表明しています(「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」イザヤ65・17)。時間的経過の推移によっては衰微・荒廃・没落といった様相を呈する生命体が、更新された時の開示と共に新たな命へと脱皮します(「たとえわたしたちの〈外なる人〉は衰えてゆくとしても、わたしたちの〈内なる人〉は日々新たにされてゆきます」二コリント4・16) ― この「死して成る」という現実の最内奥の秘儀こそ、試練を経たキリスト教信仰が《神の絶えざる創造》の在り処として体得し得たものに他なりません。
 してみれば、このような《創造の信仰》に ―賛美と感謝をもって― 自らを奉献した者である私たちは、この世の移ろいゆく諸相の中に身を置きつつも、今日その内に生が営まれている地球環境全体も複雑な歴史的展開を遂げてゆく人間的諸事象も、神の創造の業が営まれる賜物として見出す態度を培う必要があるでしょう。現代の世界に蔓延する〈死の文化〉に抗して〈創造の文化〉を信仰から打ち立ててゆくこと(参照 ―教皇ヨハネ・パウロ二世 回勅『いのちの福音』)を、2011年の年初の抱負とし、過ごしてまいりましょう。