2011年1月  2.キリストにおける信仰の一致を生むもの
 今日、キリスト者の間での信仰一致を推進する自覚的な努力は、国や地方における諸教会の事情や状況によって程度の差こそかなりはあるものの、グローバルな視点から診断するならば大いに進展したと言える。第二バチカン公会議を通しての『エキュメニズムに関する教令』が明確に示唆しているように、信仰一致のエキュメニカルな運動とは「先ず第一に、分かれた兄弟の状態に公正と真理に基づいて対応していないため、かれらとの相互関係を困難にしていることば、判断、行動を根絶するためのあらゆる努力である。次に、異なる諸教会や諸教団に属するキリスト者が宗教的精神のもとに企画した会議において、相応の準備のある有識経験者の間で行われる『対話』である」(第4項)。
 このように他のキリスト教諸教会とキリスト者の境遇に積極的に対応することからの相互関係と対話の姿勢は、カトリック教会の内にも開放的で寛大な信仰理解の精神を喚起したが、それは決してカトリック教会のアイデンティティーが希薄化する方向を意味するものではない。『教令』は、「カトリック信仰を表明する方法と順序は、決して兄弟との対話の妨げとなってはならない。〔…〕。カトリック教義の純粋性を傷つけ、その本来の確実な意味を曇らせる偽りの諸宗派和解主義ほど、教会一致運動からかけ離れたものは他にないからである。同時にカトリック信仰は、分かれた兄弟からも真に理解されうるような方法とことばをもって、より深く、より正しく説明されなければならない」(第11項)と明記している。教会一致(エキュメニズム)というキリスト教信仰の課題は、神の神秘の賜物である教会の真正性についての諸秘儀を「分かれた兄弟」との間でも共に更に探求してゆくことによって、信仰における自らのアイデンティティーを深化するものでなければならないのである。
 思うにその際、信仰における以上のような真正な開放性は、ミサ典礼の中でも日々の生活の中でもわたしたちの祈る心が閉ざされた個人的及び集団的なエゴから抜け出て他の神の子らとの交わりに入っていける開かれた姿勢を持つことを原点としている。現教皇ベネディクト十六世は、その著『ナザレのイエス』の中で「主の祈り」の〈天におられる私たちの父よ〉の句について述べておられる箇所で、「『私たちの』というこの言葉によって、私たちは、主がその家族を集めようとされた生ける教会を肯定するのです。こうして主の祈りは全く個人的な祈りであると同時に、教会的な祈りとなります。〔…〕。この祈りは、すべての境界を超えて私たちを一つの家族とするのです」(里野訳、春秋社、2008年、189頁)と力強く解き明かしてくださる。新年一月の〈信仰一致週間(18〜25日)〉も近いことから、「天におられる父」とは、すべての壁を打ち壊し地上に創造的な平和を打ち立てる「大いなる普遍的な私たち」を指し示していることに心を留めたい。