2011年1月  3.人権を護る責任
 今から60年以上も前の1948年12月10日に、私たち人類は、一人ひとりの人間に与えられたいのちの尊厳について、実に画期的な宣言を国際連合の第3回総会で採択しました。「世界人権宣言(人権に関する世界宣言)」、です。その第1条には「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と、うたわれています。「すべて」という表現は、一人残らず全部ということなのです。そして、この宣言は、世界中の人に当てはまるのです。人類が誕生してから約400万年という、とてつもない長い年月をかけて、私たちは完全なる平和と平等の理念に到達することができました。実に画期的な宣言です。何と素晴らしいことでしょう。
 ところが実際には、日常生活のさまざまな場面で、人間として与えられた「自由と平等」の権利が、護られない事態が起きています。弱い立場に立たされた人は、相手の人が持つ権力のゆえに、自由と平等が犯されてしまいます。その権力は、時には国家という形をとって、平和を求める人を無理矢理に兵士として戦場に送ったり、また時には親という形をとって、躾(しつけ)だと言って子どもに食べ物や飲み物を与えなかったりと、弱い立場にあるものが、どんなにいやだと思っても決して避けることができない脅威となって、襲いかかってくるのです。
 このような人権の侵害は、社会の仕組みから生まれたり、ただ富と権力だけを求める人間の弱さから生まれたりします。一人で避けることが極めて難しいこの人権の侵害に対して、私たち一人ひとりは、いのちを分かち合っている者として、人間の尊厳にかなわない行為であることを声を大きくして申し立てて、その一人の人権を擁護する責任を享受しています。そして、この人権侵害は、遠い国での出来事ではなく、残念なことですが、まさにこの日本で、今、さまざまな場面で、実際に起きていることなのです。
 国連総会で採択された高邁(こうまい)な宣言が、絵空事(えそらごと)にならないために、私たち一人ひとりは、人権意識を高めて、いただいた「自由と平等」を互いに護り合っていくことが求められているのです。これは、キリスト者である前に、人間としてすべての人に与えられた責任なのです。