2011年2月 3.日本社会におけるいのちの保護 |
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1・31) 聖書は、私たちのいのちが神の愛によって創造され、生かされていることを記しています。すべてのいのちが神の祝福に満たされて現存しています。一人ひとりのいのちが、かけがえのない聖なるものであり、だれもそれを侵すことのできないもの、侵してはならないものです。いのちは本来的に、互いに尊いものとして大切にし合う絆のうちに幸いを見出すものとして造られています。 しかし、今日、この日本社会においても、この聖なるいのちが軽んじられ、傷つけられ、あまつさえ殺されています。そのような事象は社会のあらゆる側面に見出すことができます。特に無防備で無力な人たちのいのちが侵害されている事柄が数多くあります。妊娠中絶、差別や貧困による社会からの疎外、物質的効率の優先、能力主義と競争の優先、路上生活者への無関心、老齢者の疎外と孤独、それらはこの日本社会に生きる私たちが、人のいのちを、そして自分自身のいのちをどのようなものとして捉え、生きているかを映し出しています。結局、他者のいのちを疎外することは、自分自身のいのちもその程度の価値のものとしてしか捉えていないのです。物質的繁栄による一時的な高揚感にだまされてはいけません。それはあたかも麻薬のようなもので、その「一時」が過ぎたとき、私たちのいのちを、その幸いを、根底から蝕んでいきます。 神の愛の結晶であるいのちの本質からして、他者の不幸の上に成り立つ幸いなど決してありえません。愛し愛されることによってのみ、いのちの幸いが夢想でなく現実のものとなります。私たちの社会が、すべてのいのちを聖なるものとして尊重し、互いに大切にしていくことができますように。そして私たちキリスト者が物質的繁栄でなく、神の愛の繁栄のために力を尽くしていくことができますように。 |