2011年4月  1.あらゆるものにこめられた造り主の想い
 若いころ、「造り主を覚えることは知恵の初め」という言葉に心を動かされました。還暦に近づいた今も「まったくその通りだ」と実感しています。人として真っ当に生きるために欠かせない真実を、このような言葉から汲み取った人は、長い歴史の中で夥(おびただ)しい数に上ることでしょう。このような言葉の重みを軽んじ、そこに含まれている真実を蔑(ないがし)ろにする今の時代の風潮は、とても残念でなりません。
 このような真実に生徒たちを向き合わせてくれる学校は、今、どこにあるでしょう。このような真実について次世代に問いかける教員を、今、どれぐらい見出せるでしょう。はたして、自分の息子や娘と一緒にこの真実を生きようとする親たちが、今、どれぐらいいるでしょうか。若者たちを取り巻く今の社会の至る所で、人間らしい生を生き抜くために必要な認識を得る機会、人として魂に刻み付けなければならない真実と対峙させてもらえる機会が、どんどん失われていく、否、奪われていくように感じます。祈りの中で、そんなふうに思い巡らしていると、若者たちに向かって無性に謝りたくなります。私たち大人が、取るべき責任を取らずに、若者たちを、生きる希望が感じ取れない状態で放置し、生きる意味への問いを軽んずる境遇に閉じ込めてきたような気がするからです。
 自分の存在が与えられたものだ、自分のいのちが贈られたものだということ、何か価値あることができる能力は賜(たまわ)ったもの、誰かと支え合える絆は恵まれたものだということを、何よりもまず思い起こさせ合うのが、人間であることの責任を共有することではないかと思うのです。与えられ、贈られたのなら、賜り、恵まれたのなら、そこには、こうあってほしい、こう活かしてほしいという、与え手や贈り手の想いがこめられていて、何の不思議がありましょう。存在やいのちに、能力や絆にこめられた想いを、そして、あらゆる被造物とそれらが紡ぎ出す生命の織物の中にこめられた想いを、わたしたちクリスチャンは、神のみ旨、と言い慣わしてきました。神のみ旨を全うし、その中身を白日の下に晒(さら)してくださったイエスを、世の終わりまで、主と崇め続けるのが、クリスチャンの存在理由です。
 世界の未来を担う若者たち皆に、兎にも角にも、この方との出会いをもたらしたい、と欲し望み願う人が少数なわけがありません。かつて私も、その方との出会いに恵まれ、その方との出会いの道具になりたくて、修道司祭を志し、今もそれを生きている一人です。
 子どもは、通常、人生の意味や生きる希望を問題にすることはありません。そのようなことで悩む子どもを産み出す今の時代のほうこそ、問題にされて然るべきです。有り難いことに、造り主のことを話すと、子どもたちは何か大切なことをつかんでくれます。その方の想いが子どもたちには通じます。幼い子どもと造り主について話ができるのは幸いなことです。幼い頃から「汝の造り主を覚えよ」、との神の民への促しは、大人のためでもあるのでしょう。
 幼い魂に刻まれ、若者の心に深く根を張っていくはずの造り主の想い、それを何より大切にする社会を作り上げていくための知恵と勇気を、主に、祈り求めましょう。