2011年4月  2.だれも滅びることがないように
 何十年も前から日本の地で宣教に勤(いそ)しむ外国人司祭・修道士と一緒に生活していると、時折とても不思議な気持ちに襲われます。外国で生活したいと一度も思ったことのない私にとって、その不思議さは畏敬にも似た想いとなるのです。
 かつて、遠い遠い国から、いのちをかけて、日本にまでやってきた宣教師たち。彼らを列強の植民地政策の傀儡(かいらい)と誹謗する声も聞こえてきます。でも、宣教師たちを、内側から駆り立て、地の果てにまで赴(おもむ)かせたものは何だったのでしょう。「魂の救い」のために、遠い私たちの邦(くに)まで、危険を冒(おか)して大海を渡り、福音を伝えに来てくれた、としか私には言いようがありません。
 今時なんて古い、と言われそうですが、私は本気で、かつての宣教師たちの心には「だれも地獄に行かせない!」という強い想いが息づいていたのだろう、と考えています。地獄、地獄と喚き立てて恐怖を煽るのが宣教の手段だなどと思っているわけではありません。でも、そのような強い想いを共有できれば、宣教師たちの言動や生き様の根っこに触れることができそうに思えてならないのです。彼らは心底「魂を救わなければ!」と熱く望んでいたのではないでしょうか。未だ救い主の存在と導きを知らないで生きている人々に、救い主イエスの到来を告げ知らせ、その救いの恵みに与る交わりの場である教会へと呼び集めたい、そのためなら自分のいのちをかけて悔いはない、と確信していたのだろうと思うのです。
 ある司祭が、シスター方のための黙想会の話の中で、冗談半分だったのかどうか、「僕は滅びたくない」と言ったそうです。それを伝え聞いた私は、人間は滅び得る存在だ、という厳かな真実を改めて思い知らされ、筋金入りの司祭職を生き抜くヒントをいただいたようで、凛とした気持ちになりました。彼には「魂の滅び」の恐ろしさが痛いほどリアルに想像できたのでしょう。それはまさに「だれも地獄に行かせない!」という迫力ある想いと相通じています。
 現代は、地獄や滅びを真に受けるどころか、一顧だにしない時代のように見受けられます。でも、そのようなことにしばし思いをとどめてみることも、実りある祈りに通じるかも知れません。神が、そのひとり子を十字架上の死に渡してまでわたしたちに授けようとされた「救い」とは何なのか、を思い巡らす恵みの時となるなら、ありがたいことです。神がそれほどまでに大切にし、ご自分のもとへ連れ戻そうとなさる人間。ならば、わたしたち人間同士がどうかかわり合うべきか、言わずもがなです。
 魂の救いに思いを致す静けさが、皆に恵まれますように!
 魂の故郷を慕い憧れる心が、皆を奮い立たせますように!
 魂の住処に憩う平安が、一刻も早く皆に訪れますように!
 アーメン