2011年4月  3.聖地、不滅の愛の発祥地
 真理に基づいた愛の教えを説き、自らその愛を極みまで生き切ったイエス・キリストを世の救い主と宣べ伝えるわたしたちクリスチャンに、時折こんな問い掛けがなされます。「救い主が来た、と君たちは確信しているようだけれど、それにしては、二千年経った今も、世界がそれほど良くなったしるしは見当たらないね」と。同種の問いを心に抱いているクリスチャンも皆無ではないでしょう。罪と死に支配されるこの世を刷新しくしてくださる方こそ本当の救い主であり、その方の到来を確固とした信頼と希望のうちに忍耐強く待ち望み続けているユダヤ教の方が信仰としては本物ではないか、と真剣に考えたことが私にもあります。
 毎年クリスマスに、福音書にあるイエス誕生の件から慰めと希望をいただく人は少なくありません。住民登録を課して全国の住民を思いのままに動かすローマ皇帝の圧倒的な存在観に比べ、布に包まれて飼い葉桶に寝かされている幼子イエスの無力な姿が印象的です。それはまさに「力による世の支配」対「愛による世の支配」のコントラストです。思うに「(一つの)力の支配」は「(別の)力の支配」に取って代わられるのが世の常、いつまでもこの世に平和が行き渡らないわけです。でも、イエスがこの世にもたらしたのは「愛の支配」、イエスが誕生した聖地から静かに広がり始めたのは「正義と愛と平和の国」です。
 愛は、目立たずゆっくりと、しかし、倦むことなく着実に、その支配を広げ、浸透させていきます。その成長を止めること、ましてや、真実の愛そのものを消し去ることは、誰にもできず、どんな力を以ってしても不可能です。本物の愛は唯一つ、それに取って代わる別の愛などありません。
 ところで、イエスのもたらした「愛による世の支配」はどんな実りを結んだのでしょうか。二千年を経た今、わたしたちはどんなしるしを目にすることができるでしょうか。確かに、人類はたいして良くなっていないのかも知れません。人間は相も変わらず悪にまみれています。それでも、前世紀の半ば、二度にわたる世界大戦の悲惨な経験への反省を踏まえて、多くの国々が共に「世界人権宣言」を練り上げ、その遵守を公に誓ったことは、人類史上、途轍もなく大きな一歩だったのではないでしょうか。人類が、人間性そのものが、依然として罪にまとわりつかれながらも、よくここまで成長してこれたものだ、と感動するのは私だけでしょうか。私にとって「世界人権宣言」は、「愛の支配」の浸透の発露、「正義と愛と平和の国」の成長の証でもあります。
 イエスが来られて世界が変わったのでしょうか。救い主キリストのこの世におけるご生涯によって世界が良くなったのでしょうか。もし未だに救い主が来ておられないなら、今の世界はもっと大変な状態だったのではないか、と私は思います。聖地を起点とする「愛による世の支配」が人類史に染み渡りつつあることを感謝したいものです。
 問題が尽きぬ聖地。でも、不滅の愛の発祥の地であることは今も変わらぬ事実です。