2011年4月  4.教会へ行くこと、福音を伝えること
 10年以上前の8月半ば頃だったでしょうか。長野市にある女子修道院で数日間静かな時を過ごす数人の若者たちの祈りのお手伝いをしたことがあります。その折、一人の女子学生とやりとりした話の内容は今も新鮮に甦ってきます。「私は洗礼を受けていませんが、今通っている大学がカトリック系で、今回のような企画があると知りました。夏休みの暑いこの時期に、東京よりは涼しい長野で、数日間落ち着いた時間を持てそうかな、と思ってやって来ました」と参加の動機を述べた後、彼女はしばし味わった黙想の時を振り返って、「キリスト教の神さまは、自分を信じてくれる人たちだけでなく、信者であろうとなかろうと、人間皆を救おうとなさる方だ、ということが腑に落ちて、とても嬉しかったです」と言ってくれました。
 いみじくも彼女が言い表してくれたとおり、私たちクリスチャンが信じている神は、「おまえは私を信じてくれるから救ってやるが、信じてくれない者たちを救うつもりはない」などとおっしゃる方ではありません。もちろん、神が差し出してくださる救いの恵みを自分の方から「いらない!」と言って断ってしまえば話は別ですが……。すべての人を救おうとして、ありとあらゆる方法を尽くされる神さまと出会わせていただいたのだと思うと、とても幸せな気持ちになり、重ねて彼女にお礼を言いたくなります。
 日本でクリスチャンというと、日曜日に礼拝のために教会に行く人たち、というふうに思われているのでしょうか。私はこのような一般的な理解がとても好きです。なるほど、それは、休日ですら義務に縛られている不自由な人たち、というふうにも響きます。また、洗礼を受けた人でさえ、たまには、さまざまなイベントやコミットメントで忙しい日曜日に毎週毎週わざわざ教会まで足を運ばなくても、と不平を鳴らしたくなることもあるでしょう。でも、多少犠牲を払ってでも主日(=日曜日)のミサ(カトリックの礼拝の中心)は欠かさない、と心に決めて、教会に足繁く通うクリスチャンも少なくないのです。
 死に臨む人に、万が一、キリストがご自分をお示しになり、「私はイエス・キリストです。臨終の床にあるあなたに言います。私のところにいらっしゃい」と仰せになるとしたら、どんな答えが返ってくるでしょう。「私はクリスチャンではありません。これまで一度も教会に行ったことはなく、行こうと考えたこともありません。でも、そう言えば、何かにつけてよくしてくれたお隣さんの家族は日曜日になると毎週教会へ行っていました。時には面倒臭そうに足を運ぶ様子も見ましたが……。それは、あなたにお会いするためだったのですね。あの人たちがそれほど大切にしていたお方でしたら、私も安心してあなたの手にこの身を委ねましょう」と答えてもらえれば、これに勝る喜びはありません。人生で出会うどなたにも「いいお隣さん」であれるよう、だれをも救いから排除なさらない主に、必要な恵みを願い求めましょう。
 日曜日に連れ立って教会へ行く。福音宣教は、すでにそこから、始まっています。