2011年5月  2.中国の教会(その1)
 わが国の隣国中国は偉大な国であり、日本はたくさんのことを中国から学んできました。漢字は文字通り〔漢の国〕から伝来したものですし、平仮名やカタカナも、漢字の行書体または漢字の一部から日本人が作り上げたもので、日本固有の文化と思えるものも、その多くは中国にその起源を持っています。日本人の精神性の深いところに根ざす儒教的道徳は中国で生まれたものであり、仏教も中国、朝鮮半島を経て、日本にもたらされました。遣隋使、遣唐使が、数々の危険を冒してまで、命がけで学びに行った先も中国でした。

 フランシスコ・ザビエルは、日本をキリストの国にするためには、日本人が尊敬している中国にキリストを伝えることこそ先決問題だと考えました。そして、ザビエルは鎖国中の中国に入るべく中国の山々からわずか3キロの上川(サンシャン)島に待機するうち、帰天したのでした。 フランシスコ・ザビエルの帰天の30年後、25名のイエズス会士がこの大帝国の入り口を叩き、退けられましたが、外国人排除の法律の撤廃される日に備えて、マカオに家を建てて準備していました。日本の宣教方針にも大きな影響を及ぼした巡察使ヴァリニャーノ師は、日本に行く途中マカオに寄り、中国宣教師たちのために次のような一般原則を作りました。

 中国人の知的・精神的価値観に深い共感と尊敬を持つこと、可能な限り完全な言語の駆使能力を得ること、科学の知識を、信仰を紹介する足がかりにすること、著述と対話による使徒職を展開すること、知識階級に働きかけること、信仰に基づいた徳を第一義とすること。

 1583年、ミケーレ・ルッジエーリとマテオ・リッチは、初めて中国帝国内に居住する機会を得ました。リッチは類まれな精神力と人間性に恵まれ、中国文化の価値に対する評価とその言語の完全な習得の点で、ヴァリニャーノの原則を完璧に体現し、知識階層の改宗にその努力を集中しました。1594年に中国の官吏の仲間入りをし、護教論、数学、天文学に関する20以上の中国語の著作によって、彼らの間でリッチの学問的な名声が高まりました。

 このような日本文化の恩人である中国の人々のために今月は特別に祈ります。聖フランシスコ・ザビエルの燃えるような宣教熱を心に、ヴァリニアーノの明敏で将来を見通した宣教の原則を現代に適応しながら、マテオ・リッチの並々ならぬ学識と、中国の高い文化への尊敬と適応(inculturation)への努力を模範にしながら、現代の世界に大きな躍進を遂げているこの偉大な国のために祈りましょう。