2011年5月  3.日本における司祭召命の推進
 3月11日の大震災以来のこの1ヶ月ほど、日本中の人々が心をこめて祈った月はまれだったのではないでしょうか。行方不明になった方のご家族は、どれほど切に我が子のため、妻のため、夫のため、父のため母のため、友人のため、その無事を願って祈られたことでしょう。胸を締め付けられるような被災地の映像を前に、多くの人々が自然の力の大きさと、人間の無力さを痛感し、人間を超える方に心の目を向け始めたことでしょう。震災直後から、世界のいろいろな国、さまざまな町で、日本のために祈り、被災者と犠牲者のためにミサを捧げて祈ってくださっています。放射能のこれ以上の拡散を食い止めようと、身を危険に曝しながら日夜懸命に努力している人々のために、その家族を始め、日本中の、そして世界中の人々が、祈りをこめて応援しています。

 大震災と原子力発電所の事故は、私たちに一度立ち止まってじっくりと私たちの暮らしぶり、生き方そのものを考えるよう求めています。電力の使い方、原子力の使い方、埋蔵資源の使い方、どこまで便利さを求め、どこからは文明の利器を利用しなくても生きていけるのか、と。さらに深く、人間が生きていくうえで、本質的に必要なものは何か、あれば便利だが無くてもすむものは何か。人間に心からの喜びと本物の幸せを与えるものは何か。生きるとは、死ぬとは何を意味するのか。死後の世界、永遠の生命、そして神は存在するのか。自分たちが作り出した原子炉でさえ思うようにコントロールできずにいる人間が、地面の下にあるマグマの流れや地殻の変動をコントロールできるわけがありません。揺れ動く大地に立ち、私たちは宇宙と地球の創造主に謙虚に頭を下げ祈るほかありません。

 たくさんの真剣な祈りが捧げられている今、「誰に、どう祈ればいいのか」分からないまま祈っている人々も多いことでしょう。その祈りをきちんと受け止め、神に捧げる役割を担う「司祭」の存在意義も再認識される時が来ているようにも思います。大震災から2週間後、3月25日に二人の若者が司祭職を目指して修道院の門をくぐりました。少子高齢化社会にあって、司祭の召命はきわめて難しいと言われていますが、二人のうち一人はひとりご、もう一人は妹と二人兄妹です。ご両親の犠牲と寂しさを思うと、昔のカトリック家庭のように7人、8人、10人兄弟の家庭から多くの召し出しがあったのも頷けますが、少ない兄弟の中からも神は司祭をお召しになります。
 神のお召しに雄雄しく答えて、人々と神、地と天の架け橋になる司祭への道を歩み始めた神学生、若い修道士たちのために、そしてそれに続く多くの若者を神がお召しくださいますよう祈り続けましょう。