2011年11月  4.愛という荷を負って
 今、日本では自ら死を選ぶ人が年間3万人を越えています。身体的・精神的・社会的・経済的など、さまざまな次元で苦しみを負い、その苦しみを負っていく意味を見失ってしまった時、私たちは死を選ぼうとします。現代社会のさまざまな価値観は、多くの重荷を人々の肩に乗せながらも、その重荷を担う本当の意味は与えることができない、という大きな自己矛盾をかかえています。
 このような虚無の内に、イエスの声が響いています。イエスは「疲れたもの、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげようと」言われます。 イエスに従う道にも荷があります。イエスは「各々自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」とも言われます。しかし、イエスは「わたしの荷は負いやすく、わたしのくびきは軽い」と言われるのです。イエスのくびきは、すなわちイエスに従って負う荷は、愛そのものです。愛し愛されることによっていのちが負う荷です。そのくびきは、神の創造によって私たちのいのちが本来的に持っている本性です。
 私たちはこのイエスのくびきを負うことを避けようとして、本来、負う意味が全くない、ありとあらゆるくびきを自らに課し、そのようにして自分たちで造り出したくびきに自らかんじがらめになり、その重荷に疲れ果ててしまっています。「愛し愛される」という荷をいのちが負うとき、いのちは、そのありのままのありかたに落ち着きます。
 その時初めて、私たちのいのちは、真の永遠の喜びを知っていきます。私たちがイエスに従って、負う必要がない重荷を下ろし、愛というイエスのくびきを負っていくことができますように。 そしてそれを負う喜びによって、人々にイエスのくびきを負って生きる喜びを伝えていくことができますように。