2011年12月  3.今の時代を何にたとえたらよいか
 待降節は本質的に待つ時です。希望があるから待つことができます。希望がなければ待つことはできません。そして、誰を待つか知っているので準備ができます。
 「きょうをささげる」の今月の意向は「相互の理解と尊敬」ですが、現代人はお互いに理解し、認め合えずにイライラしているように見えます。キリストは福音書で「今の時代を何にたとえたらよいか」と注意されていますが、まったく今の日本をどうたとえて説明したらよいのでしょうか。
 「自己中心的」と言われるように、隣りにいる人のことをまったく見ようともしませんし、見えることもないのでしょう。
 自転車に子どもを背負って、携帯電話をしながら走っているお母さんの姿をよく見かけますが、これは法律で禁じられていることなのです。さらに雨の日には、子どもを自転車に乗せて、傘をさして走っている母親の姿もよく見かけますが、これは母子にとっても危険ですし、それ以上に同じ道を歩いている人たちにとっても大変迷惑なことです。これも法律で禁じられているのですが、その母親たちには自分の都合しか見えないのでしょう。

 「今の時代を何にたとえたらよいか」と、キリストに尋ねられたら「サーカスにたとえる」と答えてもよいくらいでしょう。また、若者たちがハイスピードで走るオートバイはサーカス以上でさえあります。福音書では「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」と嘆いていますが、今の時代の警察官もきっと同じことを言うでしょう。
 それに対してキリストは「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言っておられます。確かに「自己中心的」な若者が多い今の時代ですが、今回の大地震や大津波の被災地支援のためにボランティアとして出かけていく若者たちを見ると、日本の未来に希望が湧いてくることもほんとうでしょう。
 震災被災者の方々とボランティアの間に、いつの間にか相互の理解と尊敬が生まれますように。お互いに同じ人間と理解し合えて、はじめて相互の理解と尊敬が湧くのだと思います。