2011年12月 5.この子の名はヨハネ |
年の瀬を迎えて、改めて日本の救いのことを考え、未来の希望を祈りましょう。福音ではキリストの誕生を前に、洗礼者ヨハネの誕生が告げられています。 保育園や幼稚園では毎月誕生会を行うところが多いのですが、よく子どもたちに「ほんとうの誕生日は誕生日より10カ月早く、お母さんのお腹に中に小さく宿ったときだよ」と教えます。「それは洗礼者ヨハネも、キリストも皆同じで、両親はそれに気づいた時、喜んで無事に生まれてくるようにと、毎日神様に祈ります。だから誕生日は、祈って育ててくれた両親に、ありがとうとお礼を言う日ですよ。今日帰ったら、自分の方から手を差し出して握手をしなさい」と子どもたちにお話しします。ある一人の子どもは、そのことを心に刻んで家に帰り、夜になって自分のほうから母に向かって手を出して、「生んでくれてありがとう」と言ったら、泣き出してしまった親もいたそうです。 洗礼者ヨハネの誕生の時には、ただ黙って祈っていた父親ザカリアに「この子に何と名付けたいか」と手振りで尋ねると、「この子の名はヨハネ」と書き板に記して舌がほどけるのでした。 洗礼者ヨハネのこの世における使命は「荒れ野」に叫ぶ声です。 今日、東京砂漠とよく言われますが、人がたくさんいても、皆、ただ黙々と歩いて、孤独を感じている人が多いのでしょう。人を信じることができないその時に、誕生の後に荒れ野にこもって自分の使命を果たすために祈っていた洗礼者ヨハネは、人々に向かって「荒れ野こそ神と出会う場だ」と叫びます。荒れ野に叫ぶ声は寂しく響きますが、神に向かえばそれは祈りとなります。荒れ野を出会いの場としなければなりません。そのために道をつくり、主の道をまっすぐに整えましょう。そして人々がお互いに心を通じ合える道をつくりましょう。洗礼者ヨハネは一人荒れ野にこもって祈り、自分の使命を準備していたのです。 今月の日本の教会の意向は「観想修道会への援助」ですが、荒れ野での生活に疲れた人々が観想修道会の聖堂に入ると、そこで静かに祈っている修道者の姿を見て、心慰められる人が多いのではないでしょうか。 |