2012年6月  1.感謝の祭儀に現存するキリスト
 御復活の日の朝まだき、マグダラのマリアはイエスの弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。私たちも隣人に同じ知らせを告げるよう召されています。 でもそのためには、復活された「主を見なければ」なりません。主にお会いできなければ、復活されたイエスにお目にかかる前のマリアと同じように、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのかわたしたちには分かりません」と言うより他ありません。
 「主を見ること」、復活された主の生き生きした現存を感じることができるかどうかが、この使命を果たすための鍵になります。ところが、そうは問屋が卸さない、ということも多々あります。復活されたキリストは40日後に昇天されて、私たちの肉眼では実際に見ることができなくなられたので、「主を見る」ことは難しくなったように思えます。
 それを見越して主キリストは、御受難の前夜、最後の晩餐において御聖体の秘蹟を制定し、パンの形をとった食べ物として、御自身を私たちにお与えくださったのでした。神の御子が人となって私たちの歴史に入り、私たちを救うために十字架に上り、私たちの罪の赦しのために血を流して十字架上に死し、3日目に復活された、2000年前のこの救いの業を、感謝の祭儀のたびごとに祭壇で「今、ここに」再現するのです。
 これは「信仰の神秘」です。「皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡されるわたしのからだである。」「あなた方と多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」と司祭が唱えるとき、そこに主キリスト御自身のみ声を聞き、主のみ言葉であるがゆえに、無条件に信じることができますように、祈りを深めてまいりましょう。
 私たちは聖体拝領のたびに、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」という信仰のうちにご聖体に近づき、「キリストのからだ」と言って提示されたパンを「アーメン(その通りです)」と言って、食べ物としていただくとき、私たちは復活された主にお目にかかり、「主を見ました」という体験をするのです。
 聖トマス・アクイナスとともに、心をこめて祈りましょう。「今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、あなたを認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。神の御子の言われたことは、何事であれ信じます。この真理の言葉に勝るまことは、世にはないからです。(聖体の賛歌 アドロテ・デボーテより)