2012年6月  2.日本の教会で働く司祭の聖化のために
 「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2・4-5)
 原罪によって、神と人との間に越えがたい深淵が広がってしまった後も、私たちを見捨てることなく、神は御独り子を私たちの救いのためにお遣わしになりました。キリストは、神でありながら人になることによって、神と人とを結ぶ橋になってくださいました。私たちがキリストという橋を渡って、神の国へ、聖父へと達することができるために。
 キリストの神秘体である教会も、そして大祭司キリストの司祭職に与る司祭たちも、キリストと一致してこの橋となる使命を与えられています。橋が橋としての目的を果たすためには、こちらの岸と向こう岸の両方に橋の両端が据えられていることが必要です。神と人、天と地、聖と俗の両方の間に架けられていなければ、橋の役目を果たすことはできません。
 司祭たちは、神のこと、霊的なことに通じるとともに、この世のこと、つまり、私たちを取り巻く文化・政治・経済、そして人々の生活の中に入って行き、そこに根を下ろすことの必要を痛感し、第2バチカン公会議以来、この努力は世界各地でなされてきました。教会の現代化(アジョルナメント)、社会に開かれた教会、各民族の文化や言語への土着化が強調されてきたことは、当を得たことであり、これからも続けるべきことです。
 しかしながら、地に根を下ろす努力を強調するあまり、天上のこと、神のこと、霊的な次元などが隅に追いやられるという行き過ぎがあったかも知れません。地上のことにどっぷり漬かりすぎて、祈りや成聖への努力がおろそかになってはいないかどうか、顧みる必要があるでしょう。この数年問題になった司祭たちによって引き起こされた不祥事なども、司祭の本質を忘れるまでの世俗化の結果と言わざるをえません。「地の塩、世の光りとなる」べきキリスト者、キリストの教会とその司祭たちが「塩の味を失う」ことがあってはなりません。
 「聖なるもの」とは、神のために「分かたれたもの、区別されたもの」といった意味をもちます。聖職者も神の民のご用を務めるために「聖別されたもの」であり続けなければなりません。ともに、日本の教会で働く司祭たちのの聖化のために祈りましょう。